やる気を奮い立たせ、心を動かす、人気アスリートのプレイリストと厳選された音楽がラインナップした、
サロモンのSpotify公式チャネルが誕生しました。
長距離走から短いジョギングまで、そして、ロードランでもトレイルでも、
より長く、より速く、次のレベルに進むためのバラエティ豊富なプレイリストをご用意しています。
季節の音楽や、リカバリー、ロードトリップ、ランニング用などを始めとする、様々なプレイリストをお楽しみください。
2024年4月、サロモンアスリートのコートニー・ドウォルターが富士山麓で開催された100マイルのトレイルランニング・レース「マウントフジ100」に参加するため来日しました。昨年はウェスタン・ステイツ、ハードロック100、そしてUTMBという世界中のトレイルランニングファンが注目する夏の三つの100マイルを相次いで制する偉業を成し遂げたコートニーは、世界最強のトレイルランナーだといっても過言ではありません。
今回のマウントフジ100では2018年に続いて二度目の優勝を果たした彼女に、レースの前後に話を聞きました。
コートニー・ドウォルターはアメリカ・ミネソタ州出身。学生時代から陸上競技やクロスカントリースキーの選手として活躍していました。コロラド州デンバーで教師をしていた2016年に初めての100マイルレースで優勝し、トレイルランニングでその才能を発揮するようになります。翌年にはサロモンのアスリートチームに加わって、24時間走の米国新記録や240マイルの超長距離トレイルレースで男女総合優勝を果たします。コートニーが2018年に富士山にやってきたのは、アメリカのウルトラランニング界でルーキーとして注目されていた時でした。
「2018年にこの大会を完走(注・23時間57分で優勝)して素晴らしい経験ができました。でも私にとっては本当にタフなレースでした。80マイル(約128km)地点で体力的にはレースは終わってしまっていて、あとは何とかフィニッシュまでサバイブすることしか考えられませんでした。」
「そういう苦しい思いをしたあとは『あの時、自分が最後までずっとプッシュし続けることができたらどんな結果が出せただろう』と、未知の可能性についていつも考えるんです。そして、もう一度あのレースに戻ってもう一度挑戦してみよう、過去の経験を生かしてもっといい結果を出してみたい、と思うんです。」
でも、過去のレースでの心残りだけが再び日本を訪ねた理由ではなかったようです。
「マウントフジは足はもちろん頭も使って走らなくてはいけない難しいレースです。夜の間ずっとハイペースで走り続けたと思ったら、今度は急な登りがやってきます。今年はうまくスケジュールに組み込むことができてよかった。」
「前回、ケビン(夫)は一緒に来ていません。彼にも富士山の素晴らしいトレイルや大会に集まる人たちとのふれあい、それに美味しい食べ物を経験してもらいたいと、ずっと考えていました。」
世界の名だたるトレイルランニング大会で勝利を重ねるようになってからも、日本はコートニーにとって再び自分の力を試し、文化に触れて、コミュニティと交流してみたい場所でした。
コートニー・ドウォルターは2018年に続いて今年のマウントフジ100で二度目の勝利を上げました。しかしその勝利は前回と比べると桁違いの内容です。スタート直後から女子のレースをリードし続けただけでなく、コースを進むにつれて前を走る男子選手を一人また一人と追い抜き続け、最後は男女を通じて3番目のフィニッシャーとなっていました。タイムは男子優勝選手に11分差まで迫る19時間21分。コースが多少異なるものの、前回の自身のタイムを4時間半も上回りました。
「100マイルのレースでは、必ず完走できるとは限りません。まずは、フィニッシュゲートまでたどり着けたのは幸運でした。その上で2018年に走った時と比べるなら、この6年間の経験を通じて100マイルを走る能力を向上させることができました。」
大会会場で話しかけられれば笑顔で応え、記念写真に応じる。レースを走っている間も、周りの選手やエイドのボランティアや応援の人たちの声に「アリガトウ」と日本語で返す。いつみても楽しそうに走る姿は2018年から変わりません。しかし、今回のフィニッシュの直後はしばらく誰とも話せず、暖かい夜にもかかわらず青ざ
めて寒さに震えていました。二度目の優勝は確実であっても、妥協することはなかったことがわかります。一体どんな思いで走っていたのでしょうか。
「全力を出し切ってこれ以上は何もできないという状態でフィニッシュする。どんなレースであってもそれが私の目標です。今回もその目標を実現できたと思います。」
「このコースは本当にタフで、登りと下りの繰り返しに加えて、それらをつなぐロードセクションも多いので、あらゆる筋肉が酷使されます。特に後半は登り下りがますます頻繁で急になり、そこをすっかり疲れた脚で臨むことになります。ゴールを考えずに目の前の一歩一歩に集中することを心がけました。」
誰かと競争することよりも、自分がどこまでできるか試すことが大事。それは言うことは簡単ですが実践することは難しいことに違いありません。日々のトレーニングにコートニーの強さの秘密があるのではないか、との質問にはこう答えてくれました。
「私はコーチもいないし、トレーニングプランもありません。でも、自分の身体が週にどれだけのトレーニングをこなせるか、どのタイプのランニングが好きか、この数年間でわかってきました。毎日、自分の脳と脚の感覚をチェックして、そこから走る距離や強度を決めています。」自分自身と正直に向き合い、体調や感覚を尊重しながら適切なトレーニングを重ねていくのだといいます。強さの秘密を探ろうと質問を重ねるうちに、心と身体の関係について話してくれました。
「私はたとえ最も過酷な場面であっても、そこから喜びを感じることができると信じています。だから、最も辛い瞬間に微笑むことは私には自然なことです。」「100マイルのような長距離レースでは、肉体的な強さと同様に、精神面の強さが非常に重要になります。レース中は、ネガティブな考えにとらわれたり、ゴールまでの距離や脚の疲労を考えたりするのではなく、マントラ(心の支えとなる言葉)を唱えることで、脳を前向きで生産的な状態に保つようにしています。」単なる我慢ではなく、自らを厳しく律しながらも心と身体が発するサインを冷静に受け止めて判断する。レース中の困難な状況を積極的に受け止める。自分と向き合い対話する。こうした精神的な強さがコートニーを今日に導いたのでしょう。
UTMBやウェスタン・ステイツだけでなく、世界の名だたる大会で成功を収めた今、コートニーは自分の目標を見失うことはないのでしょうか。そんな心配は無用なようです。
「人間が肉体的、精神的に何ができるのか興味があります。だからこそ、常に前に進み、新しいことにチャレンジし、不可能だと思えることを見つけ出すことができます。」コートニー・ドウォルターの本質は、明るい笑顔の裏側で自らの限界に挑み続ける強い精神力を持ち合わせていることにあります。そして記録や順位に囚われることなく、常に新しい挑戦を探っている。これからも彼女の歩みは、多くの人々に希望と勇気を与え、可能性への挑戦を後押ししてくれることでしょう。
S/LAB GENESIS
S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。
S/LAB ULTRA 10
ウルトラランニングのための最高の性能基準をも上回るよう設計された S/LAB Ultra 10 は、身に着けていることを忘れてしまうほどの軽さと快適さが特長。François d’Haene にインスパイアされ、彼との共同開発により誕生したウルトラレース専用のこのベストは、Salomon 最軽量の製品。必需品や大容量ハイドレーションフラスクを収納できるアクセスしやすい収納ポケットを多数備えています。
Courtney・Dauwalter/コートニー・ドウォルター
競技 トレイルランニング
国籍 アメリカ
出身地 レッドビル
誕生日 1985年2月13日
サロモン契約 2017年より
「私には夢がある。それは、いつの日か ── 」
これは、誰もが一度は目にしたり耳にしたりしたことがあるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)の演説の一節です。
そう、私には夢がある。それは、いつの日かWestern States Endurance Run(WSER)を走り、Grand Slam of Ultrarunningの称号を得るという夢である。
トレイルランニングを始めたころに漠然と思い描いていた夢に挑戦する機会が、2023年に巡ってきたのです。WESRにエントリーし続けて、10年。エントリーチケットは、気がつけば256枚(はずれるたびに、チケットの枚数が、1枚が2枚、2枚が4枚と増えて、エントリーし続けると当選しやすくなるシステムになっています)。自分には縁がないのかもしれないと思えるくらい、チケットは途方もない枚数に膨れ上がっていました。
が、ようやく、ようやく出走する権利を手にすることができました。ちなみに、2024年のロッテリーが12月のはじめにありましたが、256枚も持っているランナーは3人しかいませんでした。
なぜこれほどまでに、WSERを走りたいのか。それは、アメリカ最古の100マイルレースと言われていることが理由のひとつです。そして、最初に開催された年が、自分の生まれ年と同じ1977年であること。単なる偶然ですが、勝手に縁を感じてしまっているのです。
Grand Slam of Ultrarunningは、このWSERを含め、Old Dominion、Vermont、Leadville、Wasatchという、アメリカの100マイルレースのなかで歴史のある5レースのうち4レースを完走すると得られるタイトルです。プロトレイルランナーの石川弘樹さんがもつ、鷲のトロフィーで知っているトレイルランナーの方も多いと思います。 自分はWSERを走り、かつ5レースすべてを完走して、Grand Slam of Ultrarunningのタイトルを獲得することを目標において走ることを決めていました。
100マイルレースを5本走るということだけでもそれなりの覚悟がいりますが、このグランドスラムは6月から10月の3.5カ月間で5本の100マイルレースを走らなければなりません。レースの間隔は長くて3週間、だいたいが2週間程度しかない過酷な挑戦です。
加えて、日本に住む自分にとっては、その都度、渡米しなければなりません。体力的にはもちろん、経済的にもなかなかハードな挑戦でもあります。自分としては、100マイルを5本ではなく、3.5カ月間をひとつのレースと捉えて走るマインドで臨むことを決めました。
このグランドスラムを走るにあたって最初の懸念が、リカバリーでした。1月にHK4TUC、3月にBarkley Marathonsを走って酷使した身体を、4〜5月の約2カ月でどこまで状態を戻せるのか。途中、彩の国のペーサーや自分が運営する100マイルチャレンジ「T.D.T.」などもあり、じっくり身体を休めることは難しい状況でした。グランドスラムのスタートのレースは、T.D.T.の2週間後に開催されるOld Dominionです。
アメリカ東部バージニア州で行われる歴史ある100mileレースです。WSERに次いで2番目に古いと言われている100mileレースですが、WSERが山火事などで中止になっていることがあるので、実は開催回数は最も多いレースなのです。
ここでは、Barkley Marathonsを走るようになるまで、毎年のように参加していたハワイの100マイルレース「H.U.R.T100」で知り合ったアレックスの家を拠点にし、レースに臨むことができました。コースはほとんどが林道とロードですが、時折、アメリカの懐かしい「ザ・田舎」といえる農家の裏庭や牧場を通り抜けていきます。コースの雰囲気は抜群です。
グランドスラムに挑戦するにあたり、グランドスラマーになるだけではなく、4レースでサブ80、5レースでサブ100を目標に定めていました。その目標達成のために、Old Dominionはサブ18をめざして走ります。
しかし、フタを開けてみると、ここまでのタイトなスケジュールが響いたのか、時差ボケからか途中で眠くなって、ペースダウンしてしまい、カフェインピルを飲んでどうにか乗り切り、18時間52分で2位でフィニッシュ。結果とは裏腹に、かなり暑い気候もあって、途中で固形物を受け付けなくなり、ジェルだけで凌いだり、歩きを積極的に入れて涼しくなってから勝負を仕掛けたりする辛抱のレース展開でした。
ただ、とにかくグランドスラムのスタートが切れたこと、苦しいなりにまずまずのタイムでフィニッシュできたことを、次のレースWSERに繋げていくことに頭を切り替えます。そう、次は夢にまで見たWSERなのだから。
10年越しの願いを叶える時が、ようやく訪れました。WSERでは、 “アメリカの父” ことクニさんに、お世話になり、クニさんのホームトレイル「Cardiac Trail」を走ったり、レース序盤の雪が残っているエリア(今年は残雪が多かった)をチェックしたりして、リラックスしながら時差や気候に身体を慣らしていきました。
これまで走ってきた100mile、これから走るであろう100mileのどれもが思い入れ深いレースやチャレンジになることは間違いないですが、そのなかでもWSERは、僕の夢であるBarkley Marathonsと並んで特別な存在です。
10年待ち望んだレースは、10mile進んだら「あ〜、あと90mileしか走れない」と思うくらい、ずっと続いていてほしいと感じていました。目の前に広がる光景は、繰り返し観たドキュメンタリー『Unbreakable: The Western States 100』の世界そのもの。ここはあのシーンの、ここは……と思いながら走っていました。
今年は、レースの象徴的ポイントのひとつNo Hands Brigdeにエイドがなかったのが残念ですが、20時間19分59秒は夢心地でした。スタートからしばらく続く残雪エリアが思うように進めなかったので、目標としていたサブ18には及びませんでしたが、充分に力を出し切ることができたと思います。
それはレース後半を素晴らしいペーシングで導いてくれたペーサーのブランドンのおかげでもあります。トレイルを走るランナー同士、初めて会ったとは思えないくらい波長が合って、またいつか一緒にトレイルを走りたいと思える仲間がまた一人増えました。そして、新しいランナー仲間を繋いでくれたマリコさんにも感謝しかない。
ウルトラランニングをやっていると、ほぼ100%思い描いた通りになることはありません。大なり小なりのトラブルはつきもので、それをどのように乗り越え、ゴールに辿り着けるかを楽しむ競技だと思います。そういう意味では、3戦目のレースであるVermont100は自分にとって試練となるレースだったのだと思います。
それは、渡米2日目のことでした。Vermont100の開催地にハリケーンが直撃し、レースがキャンセルになってしまったのです。
ちょうど自分は、Barkley Marathonsでいつもサポートをしてもらっているアナトーリの家のテレビで映像を見ていて、被害は甚大でレースどころではないのは、映像からも見て取れました。ただ、これでグランドスラムを完全制覇する夢は終わってしまうのか……とショックを受けていました。
ただ同時に、過去にも似たようなことがあり、2つのレースが代替レースに認められていたことを思い出し、気がついたらウルトラサインアップで滞在中に参加できる100マイルレースを探していました。
エントリーできそうなレースはひとつだけ。Devil’s Gulch。さっそくレースディレクターに参加させてほしいとメールをすると、快く受け入れてくれました。
アナトーリは、まだLeadvilleとWasatchが残っているから少しでも体力を温存したほうがいいとアドバイスしてくれました。確かにそれが賢明な選択
択かもしれない。もちろん、ハリケーンの被害は空港にも及んでいて、そのレースの場所まで飛行機が飛ぶのかさえ不確かな状況でした。
「自分は何がしたいのか」。ずっと自問自答を繰り返しました。
その答えは、Devil’s Gulchを走るということでした。自分の決断に呆れるアナトーリに空港に向かってもらいました。途中のガソリンスタンドも停電しているような状況で、空港へ移動中のクルマの中から航空会社への電話も繋がらない。
空港で待ち続けると、ハリケーンがどこかへ行き、4時間遅れで飛行機が飛んだのです。もしあのとき電話がつながってフライトをキャンセルしていたら、どこかで引っ掛かりを残したまま、グランドスラムを達成したことになっていたのかもしれません。
レースは23:54:44で1位フィニッシュというおまけつき(完走者は3人でした)。のちにグランドスラムのレースとして、無事に認定されました。
第4戦の開催地Leadvilleという村は、標高3120mあたりにあります。富士山でいうと「太郎坊」くらいから走り始めるイメージです。トレイルランニングは、日本もそうですが、宿の数が限られているので、その確保は一筋縄ではいきません。とくにLeadvilleは、出走者が800人とアメリカのウルトラのレースでも最大規模のレースで、会場から遠い場所でないと宿が空いていない状況でした。
「オレの部屋に泊まれよ」。そう声をかけてくれたのは、Old Dominionのゴール地点で知り合ったジャレッドでした。Old Dominionの会場でグランドスラムの話をしていると、宿がないなら一緒に泊まろうと声をかけてくれたのです。彼には、空港まで迎えに来てもらったり、ペーサーを務めてくれたネイトを紹介してくれたり、さまざまな面でサポートをしてもらいました。
ネイトとは初対面でしたが、初めて会ったとは思えないほど共鳴するところが多かったのは、同じウルトラランナーということもあるのでしょう。レース当日は、彼のお子さんの誕生日でしたが、日本からぼくが来ること、そしてグランドスラムをサポートすることを伝えたら、快く送り出してもらったと話してくれました。
Leadvilleでは、慣れない高地でのレースに苦しめられ、前半に潰れてしまう有様。でも、距離の長いウルトラに浮き沈みはつきものです。進み続けていると状況は変わります。後半はどうにか持ち直し、サブ24(23:31:18)でフィニッシュ。目標としていたサブ20には及びませんでしたが、最終的な目標はグランドスラム達成と全レースでサブ24。結果としては充分です。
いよいよ最終レースのWasatch。グランドスラムは5レース中4レース走ればいいのですが、必ずWasatchを入れなければならないので、このレースに失敗するとすべてがダメになるということ。開幕戦のOld Dominionでも、憧れのWSERでも感じることがなかった緊張感に包まれていました。
Wasatchは、これまで挑戦した日本人のランナーの誰一人としてサブ24を達成していない。それだけ難しいレースでもあります。今回のグランドスラムで自分がターゲットにしていた4レースでサブ80、5レースでサブ100の達成は現実的ではないが、グランドスラムのすべてのレースでサブ24を達成することをめざしました。
恐らく自分の周りの多くの人が、短期間で4本の100マイルを走ってきていて、サブ24は難しいのではないかと思っているだろうし、自分自身もグランドスラム達成のために、セーフティーに完走するという選択肢が残されている。それでも、サブ24を狙うことを選択しました。
Wasatchでは高地順応するために早めに渡米し、コースの2回ほど試走し、身体を慣らしていきました。1週間ほど滞在することで、Leadvilleのときの高地順応が余韻として残っているのか、Leadvilleに訪れた当初のときのような高地特有の苦しさは感じませんでした。もしLeadvilleでの高地順応がなければ、Wasatchではこんなにもスムーズに高地順応ができなかったと思います。
レースは、途中でタイムテーブルから遅れ始めた。「自分には無理なのか」と疑う瞬間もありましたが、こういう時に活きるのが経験です。自分は誰よりも100マイルを走ってきている。そう信じて抑えにいくと、脚が動きはじめ、140km地点でようやくグランドスラムとサブ24の達成を確信することができました。
もちろん、それは自分だけの力ではありません。H.U.R.T.で知り合って以来の友人であるイアンが、レースを通してサポートしてくれたり、Tomo’s Pitのクライアントであるベンジャミンがペーサーをするためにわざわざスイスから来てくれたり、それ以外にも家族や日本の友人たちのサポートがあってこそのこと。
グランドスラムを終えて、つくづく思うのはトレイルを走り続けていなければ出会うことがなかった友人たちがいてくれたからこそ、自分は走り切れたということです。
でも、自分の夢はこれで終わりではありません。「夢の墓場」であるBarkley Marathonsのフィニッシャーになること。キング牧師を殺害した凶悪犯の脱獄劇から生まれた“悪魔のレース”の5度目の法螺貝は、すでに鳴っているのです。
Result〉
Old Dominion 18:52:27 2nd overall
Western States 20:19:58 39th overall
Vermont Cancelled
Devil’s Gulch: 23:54:44 1st overall
Leadville 23:31:18 39th overall
Wasatch 23:17:17 6th overall
Best 4 x 100 times: 86:01:01 19th/406 finishers since 1986
今回のグランドスラムは、Barkley Marathonsでも使った、超⻑距離を⾛り切れるクッショニングを備えている「S/LAB GENESIS」一択。また、22年のバックヤードウルトラ以来、愛⽤しているソックス「S/LAB NSO VERSATILITY」は、程よいコンプレッションがランニング中もリカバリー中も手放せない(脚話せない)ギアです。6月から10月にかけて開催されるグランドスラムは暑さ対策も重要です。S/LAB SPEED BOBもマストなギアでした。
FOCUSED ITEM
S/LAB GENESIS
S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。
S/LAB ULTRA KNEE
※S/LAB NSO VERSATILITYに近しいモデルを紹介しております。
ウルトラディスタンスのために開発された S/LAB ULTRA KNEE は、トリガーポイント(〇部分)に Resistex® Bioceramic ファイバーを使用することで微小循環系の働きを高め、エネルギーリターンを向上。軽いコンプレッションで筋肉をサポートし、速乾性に優れた配合で履き心地も快適です。長時間着用しても気にならない、程よい着圧のソックスです。
S/LAB SPEED BOB
トップアスリートからのフィードバックをもとに、S/LAB SPEED BOB の保護機能を高めました。より幅広く、形や角度も変えられるようになった縁は、適度に調節可能です。ホワイトカラーのメッシュ素材はとても軽く通気性抜群。アイスキューブを入れるスペースも充分です。炎天下でも太陽光線から頭部をしっかり保護してくれます。
井原 知一/TOMOKAZU IHARA
・Answer4アスリート / Salomonアスリート
・株式会社TOMO’S PIT代表(Facebook / Instagram)
※オンラインコーチング
2007年当時、身長178cm・体重98kgの肥満体系であったが、ダイエット企画の社員サンプラーとなり毎日30分トレッドミルを走り続けた結果、3ヶ月で7kgの減量に成功。それ以来、走ることがライフスタイルとなりトレイルランニングと出会う。夢は、100マイルを100本完走するとともに走る楽しさを広げていくこと(2022年12月時点で100マイルを64本完走)。
2023年8月1日から丸々1ヶ月、フランスのシャモニーとスイスのツェルマットに遠征というか旅というか….に行ってきました!この旅を計画したのはちょうど1年前。目標レースに向けてトレーニングをしては故障を繰り返してという時期でした。DNSが続くうちにレースに対してのモチベーションもなくなっていき、モヤモヤが大きくなっていました。その正体はレースと山遊びのバランスをどう取るのかという葛藤でした。
バラエティーに富んだ高山に魅了されて白馬に移り住んできたのにレースに向けたトレーニングとなるとロード、峠走、知り尽くしたルートでのタイムアタックなどばかり。山の経験値が上がっていかないことにもどかしさを感じていました。しかし、好きなように山遊びしてるだけではもちろんレースで勝てないこともわかっています。そこで2023年の計画をこのように立てました。
1. 富士登山競走までは山遊びは我慢して1番効率の良い練習に集中する。
2. 8月は1ヶ月ヨーロッパで好きなだけ山を登る。
富士登山競争の結果は9位となんとかトップ10には入れたものの自分としては悔しさが残るレースとなりました。また来年リベンジします。それはそうと、ついに待ちに待った夏休み。僕が現在働いている白馬インターナショナルスクールの夏休み期間を利用して旅に出ることができました。
まずはUTMBでお馴染みの街シャモニーに到着。昨年はMarathon du Mont-Blanc(モンブランマラソン)に出場するためにきましたが今回の目的はヨーロッパアルプス最高峰のMont Blanc(モンブラン)登頂です。標高は4,808m(以前は4,810mだったが温暖化の影響で徐々に低くなっているそう)。フランス側からMont Blancに登るルートは主に2つあります。1つはシャモニーの街から巨大ゴンドラでエギーユ・デュ・ミディ展望台にいき、そこから三山を縦走していくルート。もう1つは隣町のレズーシュからひたすら登り続けてグーテ小屋を経由するルート。自分は比較的、難易度が低いと言われているグーテルートで登りました。一般ルートと言われているものの激しい天候の変化、落石、クレバス、ナイフリッジなどのリスクがあり決して簡単なルートではありません。特に近年は温暖化の影響も受けて落石のリスクが高まっているので事前の情報収集を入念に行いました。
8月4日深夜。シャモニーからレズーシュに向かう最終バスに乗りました。天気は大雨。ただ予報では4,000m〜山頂付近は朝にかけて晴れて風も弱まる予報。そのタイミングを狙って日付の変わるころに麓の街をスタートしました。今回はキャンプサイトで出会った日本人と一緒にスタート。1人だったら雨のナイトハイクは心細かっただろうなと思うと出会いに感謝です。
5時間かけて1つ目のポイントであるテートルース小屋に到着。ここからは標高差600mほどの岩と雪のミックスをよじ登ります。そしてグーテルート上で一番危険と言われる箇所、グラン・クーロワール、別名「死の回廊」を通過します。ゴロゴロと落石が絶えない斜面をトラバースするポイントなのですが、幸いにもここ数日は気温が低かったのと前日の雪もあり比較的落ち着いている状況でした。
グーテ小屋まで到達すると景色が一変。一面の真っ白の大斜面を風がゴーゴーと音を立てて吹き荒れていました。その斜面の遠くに小さく登っている人の姿が見えます。先行者のトレースを辿って無心で登りました。1つ目の大斜面をクリアするとついにラスボスが登場。ここまで登ってきてようやく山頂を目にすることができます。標高4,350m付近に最後の避難小屋があり、その先はリッジをひたすらに直登して山頂に到達します。が、避難小屋に着いたあたりで爆風に見舞われ一旦小屋に避難します。中にはイタリア人パーティが何組かおり、みんな風が弱まるのを待っているようでした。30分ほど待機したものの風は収まる気配もなく他のパーティもみんな下山するというので自分もここで引き返す決断をしました。残念ですが時間は十分にあるので焦っても仕方なし。あまり気落ちすることもなく次のチャレンジに向けてまた天気予報と睨めっこを開始しました。
撤退から2日後、天気予報が最高のコンディションになると言うので再度アタック。前回の経験からいらない物を減らしてさらに軽量化。よりスピード重視で挑戦しました。避難小屋までは問題なく良いペースで登れたので割愛します。 朝日が登ってきて快晴かと思ったらすぐに怪しい雲が立ち込めてきました。風も徐々に強くなりまるでディメンターが出てきそうな雰囲気です。早く山頂に立って帰ってこようとペースを上げてガツガツ登りました。
さすがに4,000m後半は苦しさを感じましたがピッケルとアイゼンを交互に雪に刺す感覚が気持ちよく淡々と登ることができました。1時間ほどでついに山頂に到着。これまでの道のりに比べると意外にも山頂はのっぺりとしており、なおかつ視界が悪かったため本当に頂上なのか不安でした。手元のSUUNTOウォッチで標高を確認して登頂を確信。数枚だけ写真をとってすぐに下山を開始しました。強風とホワイトアウトで登頂の余韻に浸る暇はまったくありませんでした。
避難小屋まで来るとほっと一息。中で補給食を食べながら気づいたら10分ほど寝ていました。しかしここからの下山もまだ気が抜けません。視界不良で見誤ってクレバスに落ちてしまわないようにGPS機能を利用して自分が通ってきた道を正確に辿りました。その後はガンガンに走って下りお昼過ぎにシャモニーに帰還。今日は贅沢にモンブランビール飲んでいいでしょ!街のベンチからビール片手にさっきまでいたモンブランを眺めて余韻に浸りました。
Mont Blanc登頂後、当初の計画ではシャモニーとツェルマットをつなぐオートルートという180kmのロングトレイルを歩いて移動する予定でした。オートルートでいちばん楽しみにしていたのが雄大な景色の中で星空を見ながらテントで寝ることでした。しかし、ルート上でのワイルドキャンプが今年から禁止になっていたのです。理由はオーバーツーリズム解消のため。そこで山小屋を予約しないといけなくなったのですが当然すでにどこも満室。そもそもこれまで節約を心がけていたのに山小屋に何泊もするのは気が引けたので仕方なくオートルートは諦めて鉄道で一気に移動することにしました。
途中、マルティニーという街で1泊し世界一斜度がきついバーティカルコースにチャレンジしました。歴代の名だたるトレイルランナーや山岳スキーの選手が記録を塗り替えてきたコースで言わばバーティカルの聖地です。距離2.0kmで標高差1,000m とまさに壁のようなコース。果たしてどんなサーフェスかと思って行ったらまさかの無限階段地獄でした。ぶどう畑の中を真っ直ぐ天に向かって突っきるトロッコ線路。一目でわかりました…これはキツイやつだ。モンブラン登山の翌日だったので身体は疲れていましたがせっかくの機会なので鞭打ってタイムアタックしました。5分前にスタートした地元の高校生2人を何とかゴール手前で抜かしましたが歴代のトップ選手達との差をまじまじと感じさせられました。登りをもっと強化して挑戦しにいきたいです。それにしてもこんな鬼コースで日常的にトレーニングしている高校生…恐るべし。
8月11日、ツェルマットに到着。駅のすぐ近くにキャンプサイトがあったのでそこでテントを張りました。夜になると体が急にだるくなり高熱にうなされて翌朝を迎えました。翌日も1日中、熱とだるさで動けずテントで寝るばかり。日が出るとテントの中はサウナ状態になるので何とか這いつくばるようにテントから出て木の陰でぐったりしていました。幸いにも熱は2日で収まったもののその後1週間以上、倦怠感と極度の体力低下で山にも行けずトレーニングもろくにできずともどかしい時期を過ごしました。症状的におそらくコロナだったのだと思います。
高熱後の後遺症に悩まされながらも徐々に体力は回復し、旅も終盤を迎えることになります。旅の締めくくりはツェルマットで開催されるMatterhorn Ultraks(マッターホルンウルトラクス)。マッターホルンを横目に美しいトレイルを走り抜けるスイスアルプスならではの大会です。いくつかカテゴリーがありますが僕が出場したのはEXTREME。このカテゴリーはスカイランニングのワールドシリーズの1戦に指定されており、年間13あるシリーズの中でもトップクラスでテクニカルなコースとして知られています。距離は25km、累積標高差は2,850mと激しいアップダウンが特徴のレースです。特に下りは走るというより岩とともに滑り落ちるという表現が正しいかもしれません。登山道ではないところにレース時だけロープが張られガレガレの岩場を下ります。ダウンヒルは自信がありますが試走してみて久しぶりにビビりました。
朝8時にレーススタート。いきなり標高差1,600mをひたすら登ります。まだ体調が完全に回復していなかったのかスタート直後はかなり息苦しかったです。斜度的に4km地点までは走れると計算していたのですが、早々に息が上がってしまいパワーハイクに切り替えることに。1つ目の登りが終わるあたりでパッとうしろを振り向くと女子トップの選手がすぐうしろまで迫って来ており、かなり焦りました。そして試走でビビりまくった激下りゾーンに突入。ロープを掴んだり、転んで手をついたときのためにグローブをつけようと思っていましたが前の選手との差を数秒でも縮めるためそのままドロップイン。後傾にならないこと、10m先の足場をしっかり見ることを意識して全集中で下りました。この下りでアドレナリンが大量放出されたのかここからエンジン全開。標高は3,000mを超えていますが苦しさを感じないどころか、むしろ気持ち良くなってきました。
2登目でガンガン走ることができ、数人を抜いてエイドステーションに到着。気候のおかげもあり脱水もガス欠もなし。その後、4kmほどガレ場をトラバースするエリアが思ったより手こずりました。顔をあげて100m先にある次のマーキングを確認しつつも足元の尖った岩をピョンピョンと飛んでいかないといけません。そしてここも登山道ではないためマーキングはついてるもののほぼフリールート。直線的に進むのか安定した足場を見つけて迂回していくのか判断力が問われます。海外選手のサーフェスに対する対応力の高さを見せつけられました。一歩外したら脛を強打か顔面をぶつけるんじゃないかと思うようなところをピョンピョン飛んでいくのです。ここでまた順位を2つ落としてしまったもののその後の3回目の登りとゴールまでの標高差1,700mの長い下りでまた順位を上げ、3時間47分の総合12位でゴールしました。トップ10まであと7分…次こそは!
1ヶ月もの間、自分の本当に好きなことだけに没頭できる毎日は夢のようでした。また、日本での普段の生活がどれだけ快適なものか実感することができました。ふかふかのベット、お風呂、ご飯、車や電車などの交通網、あげたらキリがありませんが、とにかく文明の力にあっぱれです。一方で色々と足りない生活というのもまた幸せだったなと振り返っています。日の出とともに起きて山を走り、ちっちゃいナイフとバーナーで自炊して、洗濯は全て手洗い、日中は外でじっくりストレッチ。できることが限られる分、自然と自分の身体を労わる時間が増えました。おかげでこれだけ走ったり登山したのにも関わらず故障なしで帰ってくることができました。このフレッシュな気持ちを忘れず、引き続き山遊びとトレーニングに全力投球していきたいと思います。さあ来年はどこに行こうかな。
上正原 真人 / Masato Kamishohara
・Salomonアスリート
年齢:26歳
出身:群馬
居住:長野県白馬村
スカイランニング現日本代表。
大学卒業後、雄大な後立山連峰に惹かれて長野県白馬村に移住しました。
夏山、冬山、縦走登山、山岳スキーなど一年を通して山でトレーニングをしています。中でも麓から山頂までの最速タイムを狙うFKT(Fastest Known Time)が自分にとって一番魅力的なスタイルです(白馬岳最速記録保持)。
職場の白馬インターナショナルスクールでは生徒と登山やランニングを行いつつ、夏休みなどを利用して海外レースにも挑戦しています。また2021年に立ち上げたジュニアトレランチーム Mountain Addictsでは小中高生を中心に次世代の育成にも注力しています。
Ultra Trail Du Montblanc(以下UTMB)という大会は、世界で最もメジャーなトレイルランニングレースである。大会名にモンブランという名を冠するだけあり、フランス・イタリア・スイスの三か国にまたがるモンブランを山伝いに一周(171キロ)するものである。モンブラン最高峰へ登る訳ではないが、それでも累積獲得標高は10,000mを超える。世界屈指の美しい風景と過酷さを併せ持つトレイルランナー憧れの舞台である。
そんなUTMBも2023年開催にて20回目を迎える。今大会からUTMB関連レースのファイナルという位置付けになり、歴代で最も出場者のレベルが高いものとなった。UTMBに出場するためには、UTMB関連レースにてストーンを獲得(現時点では国内には関連レースが存在せず、最低1戦でも海外関連レースに出場し、完走する必要がある)し、抽選で見事当選する事が一般的な出場方法である。他の出場方法としては、その関連レースにて成績上位ならば、無抽選で出場権が与えられる制度があり、私においては、2022年タイで開催されたドイインタノンbyUTMBという大会にて、年代別ランキング上位にて抽選を経ないダイレクトエントリーが可能となり、晴れて2023年のUTMBの出場権を得たのである。
トレイルランニングを始める前から、UTMBというものをTVで目にして以来、こんな競技があって、こんな美しくも過酷な世界がある事を知り、その映像から受けた印象を心の奥底に閉まっていた。今から思えば、導かれるようにトレイルランニングを始める事になり、その時受けた感情は眠り続けていたが、競技を続けていく内に実績も伴い、トレイルランニングにまつわる人間関係も構築され、気が付けばタイのドイインタノンを走っていた。その結果、TVでUTMBを目にして10年は経過していたが、UTMBの舞台に立つことが決定した。トレイルランニングを始める前、あの時何気なくTVを見ていると、たまたま目にしたUTMBが、現実のものになるとは人生は何がきっかけになるか、分からないものである。トレイルランニングをしているならば、いつかはUTMB。心の奥底に閉まっていた感情がいよいよ現実になると、否が応でもワクワクするものであるし、絶対に結果を出してやろうという気持ちになるものである。
今回の旅路は、関空からソウル・仁川空港とドーハ・ハマド空港の2つの空港を経由し、UTMB開催地であるシャモニーの最寄り空港であるジュネーブ・コアントラン空港に向かうフライトスケジュールとなっている。
8月28日(月)19時40分関西国際空港発チェジュ航空にてソウル・仁川空港へまず向かう。関空のチェジュ航空カウンターにて搭乗手続きを行う。機内預け荷物に関して、仁川空港にて一度ピックアップして、乗り継ぎの際に、再度機内預け入れが必要だが、チェジュ航空からカタール航空は提携しているため、載せ替えておきますと言っていただく。それならばお願いしますと返答する。今思えばこの一言がトラブルの始まりだった。
2時間ほどで仁川空港到着。一度韓国に入国手続きとなり、3時間ほどの乗り継ぎ待ち時間を過ごす。続く経由地のドーハ・ハマド空港へ向かうための搭乗手続きを終え、カタール航空に乗り込む。ソウルからドーハへは7時間ほどの搭乗時間。深夜便になるため、睡眠をとって、翌朝ドーハに到着する。ドーハ・ハマド空港はまさにアラブの空港という感じで空港自体が諸々ゴージャスであった。ここでも3時間ほどの乗り継ぎ待ち。そしてドーハからジュネーブ・コアントラン空港へ6時間ほどの空旅。移動には合計約21時間かけて、8月29日14時20分に予定通り、ジュネーブに到着した。
ジュネーブ・コアントラン空港にてトラブル発生。関空から預けていた機内荷物をピックアップする際、少々心配していた嫌な予感が的中する。荷物到着コンベアから自分の荷物が待てども一向に出てこない。同じ便でジュネーブ到着した周囲の人々は一人また一人と自分の荷物をピックアップして去っていく。そして最後の一人になり、完全にベルトコンベアが止まった。ロストバゲージである。空港からシャモニーまでの現地バスを15時30分の便で予約していたが、現在15時30分。荷物がない状態ではバスに乗れない。頭が真っ白になる。現地の知人に連絡し、航空会社の荷物トラブルカウンターで相談して下さいと言われ、カタール航空のカウンターへ向かう。英語もまともに話せない状態で相談できるだろうかと不安になる。スタッフの方の話に必死で食らいつき、身振り手振りの英語(というか英単語)で返答する。それでも通じ合えない場合は、翻訳ソフトを使用してもらい、コミュニ―ケーションを取る。こういう場面ではとても便利な世の中になっている。その結果、荷物の存在は確認しているが、どこに今あるかが不明だとの事。もし、ドーハにあれば、翌日に届くが、ソウルにあれば数日かかる可能性があると。前者である事を切に願う。最悪の事態も想定して、大会参加の必携品は手荷物で運ぶべきだった。もし、レースまでに荷物が届かなければ、各アイテムを考えないといけない。途方に暮れたまま、バスカウンターに向かい、事情を説明し、バス便を振り替えてもらい、バスにてシャモニーへ向かった。
当初の予定ではシャモニー到着は17時頃だったが、前述のトラブルにより、21時の到着となってしまった。初めてのヨーロッパ、うまくいかないものだ。シャモニー到着したのは良いものの、荷物が無いことで着替えやコンタクト・歯ブラシ等の生活用品や自炊のための食料(現地では物価が高いため)も全く手元になかった。標高1,000m以上あるシャモニーの夜は8月末でも冷える。長袖を着ていてもとても肌寒いと感じた。長旅による疲れもあるが、部屋に到着してすぐシャワーがしたいと思い、シャワールームへ向かうものの、一般的なホテルではなく、アパートタイプの宿泊先のため、アメニティが全く無かった。もちろんシャンプー類も用意していたが、機内預け荷物に入れたため、早速不便を感じる事となった。ロストバゲージを相談した現地の知人の方に、同じ宿泊先の日本人の方に事情を伝えているので声をかけてみてくださいと案内していただき、初対面でシャンプーをお借りした。また非常に空腹だったため、レトルトのカレーをいただいた。到着早々、大変お世話になった。
翌朝の8月30日、荷物が届かない事で最低限必要になる身の回り品とパン等の食料を揃えるためスーパーに向かった。やはり現地では物価が高い。これから買う物は全部荷物に一式用意してある事を考えると、悔しい思いを持つ(後日、海外旅行保険の損失補償の対象となるものもあります)。現地での最低限の生活用品は購入するとして、問題はレース参加のための必携競技アイテムをどうするか。途方に暮れたまま、土地勘もなく不慣れなシャモニーの街を一人歩いていた。
UTMBウィークという事でシャモニーの街全体が賑わっていた。その賑わいの反面、途方に暮れたメガネ姿の男が肩を落として一人向かう先もなく歩いていると、街中に知っている顔があった。同じUTMBに出場する吉村健佑選手である(レースでは日本人トップでゴールされた方)。吉村選手とは、2022年末タイのドイインタノンにて食事の際、同じテーブルでお話をさせてもらって以来、SNSを通じて交流があった。吉村選手に事情を伝え、「板垣さんが僕より先にゴールしないように航空会社に手配して、トラブルを仕込んでおいたのですよ」と、とてもユーモア溢れる冗談を言っていただいたおかげと、初めての土地で知っている日本人の知人に会えた事で、沈んでいた気持ちも持ち直す事ができた。吉村選手はさらに、「予備のアイテムが複数あるので良ければお貸しできますよ」と。天からのお告げにも聞こえた。藁にもすがりたい立場としては、これ以上ない有難さであった。吉村選手の滞在先にて、お貸しいただけるアイテム(レインウェア・テーピング・フラスク等々)を貸していただき、レース出場の目途が半分以上立った。シャモニー到着翌日の段階で不足するアイテムは、ウェア・シューズ・ザック・ポール・補給食関係となった。
レース前日である8月31日の朝。この時点でもまだ荷物は届かない。前日は吉村選手と会う事ができて、またUTMBで賑わうシャモニーの街を散策できて、有意義な一日となった。この日はエギーユ・デュ・ミディ(以下ミディ)というシャモニーで有名な観光スポットに行きたいと思っていた。ミディにはケーブルカーに乗って標高3,800mに上がってモンブランをはじめとする雪渓が美しい山々の風景が見たかった。しかしながらシャモニーの街でも朝晩は薄い長袖一枚では肌寒いのに、3,800mでは凍えてしまうため、半ばミディ観光を諦めていたが、そこで再びの救世主が。日本からの知人女性の方だった。この方はUTMBに先行して開催されたTDSの完走者である。自身のレースが終わって、しばらくシャモニーに滞在されていたので、私の事情を知り、連絡をいただいた。ミディ観光に行きたいならば、ダウンを貸していただけるとの事で、吉村選手に続き、こちらでもお言葉に甘えさせていただく事に。
標高3,800mミディでは凍えるような世界だったが、雪渓に覆われた急峻な山岳地帯が見事な美しさを表現していた。見る人を感動させる絶景が広がっていたため、心から行って良かったと思える観光地であった。ダウンをお借りできた事が、ミディ観光を含め、朝晩のシャモニーをこの後過ごす上で、大変助かる事になった。この方からは、他にも補給食等(自分で用意していたレース中の補給食も全て荷物に入れていた)をお借しいただき、吉村選手に続き、この旅において大変有難く、心から感謝をお伝えしたい。
ミディ観光を終え、満足感に浸りながらシャモニーの街を練り歩く。レースのスタートの目途も立ちつつあり、到着して以後、心から楽しめなかったシャモニーの街も違う景色に映るようになっていた。シャモニーの街を挟むように急峻な山々がそびえ立つ風景がとても美しく、自然と調和の取れた建物が並ぶ街、UTMBで賑わう雰囲気、現地の方含め心暖かい人々の存在でいつの間にかシャモニーの虜になっていた。
そんな事を感じながら、また一人知人の日本人の方にバッタリ出会う。その方はタイ・ドイインタノンに行った際の旅行会社関係の方であった。UTMBを走る事を伝えた上で、今回のトラブルの件を話すと、ポールはお貸しできると思いますと、三たび有難い一言をいただいた。そしてN&Wカーブというイタリア製のポールを貸していただいた。さらに、予備があるとの事でSalomon製のザックまで貸していただける事になった。ザックに関しては、普段から使用しているSalomon製がとても良かったので、大変有難かった。ドイインタノンの際にもお世話になり、今回もお世話になる形で、この方にも頭が上がらない。
レース前日の夜も更けてきて、いよいよ明日9月1日はレースである。この時点でまだ荷物が手元に届いておらず、ウェアとシューズは現地ショップにて購入する判断を迫られていた。夕食を食べながら、携帯が鳴った。荷物が空港に届き、これから宿泊先に届けますと。この事件を機にたくさんの方に迷惑をかけてしまった。そして知人の方々の有難さを身に染みて感じていた自分にも朗報であった。ギリギリではあるが、レースに間に合った。お借りしていた必携アイテムも大変ありがたく、感謝しかないものだが、自分が普段から身に着けているアイテムには代え難い。コンタクトも手元に届き、レース前日にして準備は万全になった。
9月1日のレース当日。スタート時刻は18時。いざスタートして、走り始めて2時間ほどで早くもナイトパートに突入するため、当日の18時までの過ごし方は重要である。
起床時間は午前7時。普段とおり朝食を摂り、改めてコースマップと睨めっこをして、楽にして過ごす。午後0時、昼食を摂り、夕刻に備えて横になって仮眠を取ろうとしても、緊張からか寝つけない。眠れるか眠れないかが重要でなく、睡眠体制を取る事で体が休めていると受験勉強の時に聞いたので、眠れなくても焦ることはしない。私の経験上、大会前日で全く眠れなくても、ベストパフォーマンスを発揮し、優勝できたことがあるため、仮に睡眠が取れなくても不安になる事はしない。
18時が迫る。滞在先の宿からスタート地点までは徒歩で10分程度なので、16時過ぎにスタート地点に向かった。ドロップバックを預けて、スタート地点に向かうとスタート1時間前であるが、既に大勢のランナーがスタートブロック入りしていた。私は幸いにも、158番のゼッケンであるため、100~299番までのELITE2というスタートブロックであり、比較的余裕を持って整列できた。ここで、日本人ランナーで面識のある吉村健佑選手・万場大選手と合流した。
いよいよスタート。「CONQUEST OF PARADISE」というUTMBを象徴する曲が流れ、緊張感と高揚感が押し寄せる。各国から選りすぐりの強豪ランナーたちの中で、その場にいた日本人3人で健闘を誓い合う。音楽もメインパートに来て、選手のテンションも最高潮となり、スタートの号砲が聞こえるでもなく、その時を迎えた。
前の選手に続いて流れに身を任せてシャモニーの街を駆けていく。街のメインストリートを一斉に選手が走るため、沿道の声援が物凄い。中には、沿道からビールを配っている人も何人かおられ、海外レースに来たなと感じた瞬間でもあった。スタートの演出から、沿道の盛り上がり方、UTMBという大会がシャモニーに浸透し、これから100mileを走る選手たちの気分を街全体で盛り上げてくれている。
スタートしてしばらく、比較的フラットなロードと林道を走るのだが、周囲のランナーがとても速い。自分よりゼッケン番号が後ろの選手(UTMB-index順にゼッケン番号が決まる)にもドンドン抜かれていく。私もキロ4分30秒~5分で走っているが、これから100mileを走るペースとはとても思えない高速展開であった。
一つ目のエイド(ウォーターエイド)であるU1を特に補給することなく、私含め、ほとんどの選手が通り過ぎる。ここからスキー場の急な登りに入っていく。周囲の選手も一斉にポールを組み立ててカツカツと坂を登っていく、いや、駆け上がっていくという表現か。ここで3~4名ほどの日本人選手に抜かされた。どうも周囲が飛ばしすぎていると感じたため、あくまでもマイペースを貫く。次第に日が暮れていく中で、振り返るとモンブランの白い雪渓が夕日に照らされて、とても美しく雄大な光景が広がっていた。
スキー場のピークを越えて登った分と同じだけ下っていく。周囲の選手は、下りも速く、さすが世界の舞台といった感じである。序盤のここまでで感じた事は、国内の大会ならば、ボリュームゾーンの中で、流れに乗って走っていくという事がほぼ無かったのだが、UTMBでは、まるで自分がボリュームゾーンの中で走っているかと錯覚するくらいのレベルの高さを感じざるを得なかった。
U2もシャモニーと同様、選手を鼓舞するような大きな歓声が送られた。このエイドにて補給を行う。エイドにあったものは、水分については、水・スポーツドリンク・コーラである。食料については、チーズ・サラミ・フランスパン・パワーバーのようなもの・バナナ・オレンジ・スイカ等々である。基本的には、これらは以後どのエイドにもあるベーシックなものであった。ここでは、バナナとスイカ・オレンジを摂取する。スイカが水々しくとても食べやすいと感じたため、エイド事にスイカとオレンジは必ず摂っていた。その他の食べ物については、どれも走りながら食べる事が出来なかったため、チーズやサラミ・フランスパン等のいかにも海外補給食については何一つ摂取出来なかった。そして水分は、スポーツドリンクもあまり口に合わず、エイド毎で一口だけ飲むコーラと、フラスクに入れるのは毎回水ばかりであった。今思えば、補給面で水とほぼ水分であるスイカ・オレンジしか摂取していなかったので、これが失敗だったと思う。
U2ではまだ明るかったが、U3を過ぎるといよいよ暗くなってきてヘッドライトを点灯した。長いナイトパートのはじまりである。街と街を繋ぐ形で暗くなった田舎道を進む。U3を過ぎても前後に選手が連なっているため、国内レースにおいて、山中で感じるような孤独感は全く感じない。街を少し抜けてこれから本格的な山の登りが始まるのだが、その手前、坂道の両脇に若者(実際は分からないがそのエネルギッシュさからそう感じた)を中心とした人々が、通過する選手に対して熱烈な声援を送っていた。その熱烈さはまるで、さながらゴール間際の優勝する選手に送られるような熱い声援だった。夜の暗闇にも関わらず、UTMBで感じた国内にはない衝撃の情景だった。これからの登りを頑張ろうという気分に否が応でもなるが、ここまでのボリュームの声援があると雑多で賑やかすぎると感じた私は純粋な日本人なのだろう。
UTMBのコースはベースの標高が約1,000mであるが、最高地点は約2,500m地点であり、これから進むボンノム峠は最高地点の一つである。この辺りの登りに差し掛かってくると、序盤から飛ばしていった選手を拾っていく事が多く、この先、中間点のU8クールマイユールまで50人は抜かしただろう。ボンノム峠に到達すると、気温が一気に下がるが、幸い風がなく、動き続けてもいるため、雪が足元に現れていたが、寒さまでは感じなかった。
U5に到着。ここで必携品チェックがあった。チェックされた必携品3つ。スマートフォン・長袖パンツ・エマージェンシーシートであった。チェックも問題なく、クリアし、U5を出発する。ここから再び、2,500m地点のフェレ峠まで標高を上げていく。ここでも序盤から前にいた選手をどんどん拾っていく。登り始めはそうでもないが、一定の高度からゴツゴツした足場に変わっていくのが、UTMBコースの特徴でもある。先ほどのボンノム峠と違うのは、ある地点から霧の発生により、視界が悪くなった。そして頂上に近づくにつれ、風がどんどん強くなってきた。良いペースで動き続けてはいるものの、さすがに寒く感じてきた。立ち止まって防寒具を羽織る選手も増えてきた。私はまだ寒さに耐える事ができると判断し、アームスリーブを伸ばす(これまでは手首側に外していた)だけの対応とした。フェレ峠に到着するも、寒くて手の指先の感覚は無くなっていた。このままだと凍傷になりそうで、さすがに耐えられなくなったため、手袋を急いで装着するも感覚がない手では装着にかなり手間取った。少しタイミングが遅かったと小さく反省。その後、スキー場を下ってきて約85キロ地点U8クールマイユールに到着した。
U8クールマイユールはサポート可能エイドとなっており、以前出場したタイ・ドイインタノンでお世話になった方々にエイド補助をいただいた。ここでレース中唯一摂取した固形食の即席麺をいただく。お腹を満たされた感じがしたので、そこまで長居することなく、エイドを発する。クールマイユール街中を抜けていく。まだまだ暗かったので、じっくりとは見る事が出来なかったが、イタリア中世の街並みがそのまま現代に残っているようで、とても趣深かった。
街中を抜けて、山に入っていく。ポールをカツカツとここでも順調に登っていく。しばらく登って、標高約1,600m地点で小刻みなアップダウンを繰り返す走れるトレイルに出た。この辺りで走行距離にして100キロ弱。平地・下りは問題なく走れるが、少々の登りになると走ることが厳しくなっていた。ちょうど夜明けをこの辺りで迎える。左を向くとモンブランが真横に見える位置であった。朝方は全体的に雲がかかっていて、その山頂までは拝むことが出来なかった。この辺りのトレイルは道幅が広くなく、ほぼシングルトラックである。ここまで来ると、前後の選手とそう位置が入れ替わる事もなく、巡航に徹するような形である。シングルトラックにも関わらず、数頭の牛がコース上に鎮座していた。恐る恐るその横を通過する。これも海外レースならではの風景である。
少し下ってU10に到着。ここからまた2,500m地点まで登り返すのであるが、ここで早くも足が動かなくなってしまった。足が重くなって動かなくなってしまう事は過去のレースでも度々あるのだが、今回は過去感じた事のない息切れを感じ、登っている最中に何度も立ち止まってしまいたくなるような状態であり、自分でも原因が分からなかった。ここに至るまで、決して飛ばすことなく、一歩一歩大事に進み、下りもポールを使いながら、とにかく終盤に備えて足を残しておこうと意識していたにも関わらず、この状態であったため、ショックが隠し切れなかった。今度は後ろの選手にどんどん抜かされてばかりの展開に。時間をかけ何とか、山頂に到達。ここで無事完走できるのだろうかと最初の疑問を感じてしまう。
ここの山頂からは約10キロ下り箇所が続く。下りは重力に身を任せて、体感的にはかなり遅いが何とか走っていく事が出来た。その後、スイスの風光明媚な集落間を走る。基本的には下り基調で進むが、時折平地ロード箇所が出てくる。平地でさえ、時折走れなくなった。
その時、体調の異変に気付いた。どうも気持ち悪く、吐き気がする。しばらく水分しか摂取できておらず、ついには水も気持ち悪さから飲めなくなってしまっている。そんな状態で、シャンペ湖エイド手前の登り箇所に入るが、案の定全く登る事が出来ず、ついにはトレイルの脇に横たわってしまうまでになっていた。尋常ではない息の切れ方と強烈な吐き気。通過する選手を見送りながらも10分程度は横たわらざるを得なかった。残り距離と3つの山を越えるコース設定から完走できる自信もこの時喪失した。少し横になれば回復するかと思いきや、そんな事もなく。時間をかけて登り終えて、U12シャンペ湖エイドに辛うじて到着した。
ここまで約120キロ。残り約50キロ。サポートエイドでもあるU12シャンペ湖に到着し、レースを辞めるかどうか考えざるを得ない状況であるが、少し休憩し様子を見ることにした。サポート食として味噌汁をいただくも、一口飲んでみて、体が受け付けなかった。食べられたとしても相変わらずスイカのみ。吐き気の気持ち悪さから少しベンチで横になってみるも回復はせず。ここで辞めてしまうか、途中で動けなくなるかもしれないが先を進むか。まだ回復する可能性に賭けてみたい為、この時、後者を必然的に選択した。
エイドを出てシャンペ湖を眺めながら進む。通常の状態なら、気持ちよく走れる湖畔の道であるが、トボトボと歩きだす。体調不良が回復する事を祈りながら。林道を進み、700m上昇する山の取り付けへ到着。ここからが地獄であった。道中、登る斜度が急になると途端に激しい息切れを起こし、吐きそうになる。ここでも脇に逸れてしばらく横たわる。この調子では進む事が難しく、相当時間もかかり、メンタル的にも厳しくなってきた。15分ほど動けずにいたが、再び登り始める。かなり時間がかかったが、何とかピークに到達し、登ってきた同じだけ下る。もはや下りでも走れる力もなかった。
登り下りとも大量に時間を要しながらも、U13トリエンに到着した。距離は進まずに、レース時間もどんどん経過していき、2日目の夜が目前に迫っていた。エイドの外で座り込んでいると、スタッフの方が大丈夫かと声をかけてくれて、体調が優れず休んでいて、横になりたい事を伝えると、救護室へ案内してくれた。ここで1時間仮眠を取る事にした。1時間経過して立ち上がった瞬間に強烈な吐き気が押し寄せ、ここで心が完全に折れてしまった。あと2つの山を越えられる自信が全くなく、ナイトパートで動きが緩慢な状態で、フェレ峠の時のような寒さと強風が吹き荒めば、危険が伴うと判断し、レースを終える事を決断せざるを得なかった。モンブランを取り巻く山の果てしなく高い壁を感じた。
レースを終える事を決めた後も救護室で横たわっていると、スタッフの方からこれから次のエイドまで救急車にて搬送しますと声をかけられ、隣のヴァロルシンというエイドの医療スタッフの充実している救護室に案内された。9月3日深夜2時。シャモニーまでの送迎バスに乗り、無念の帰着となった。
憧れだったUTMBの舞台も145キロ地点で自らリタイアしてしまった一方で、シャモニーに戻ると歩けるまでに体調が回復した安堵感が複雑に交錯する夜となった。これまでどんなレースでもリタイアした経験が無かっただけにこの大舞台でのまさかで、受け入れ難い事実である。トレイルランを始めた頃から心のどこかで思い描いていたUTMBという華やかな舞台でフィニッシュゲートをくぐれないなんて。次第に悔しさが押し寄せる。時間を戻せるならば、スタート前に戻りたいと後悔の念があるものの、結局戻れたとしても結果は決まっていたのであろう。トレイルランの経験を積んで、自信を持って挑んだ憧れの舞台から「お前はまだまだだ、出直して来い」と大きな宿題をもらった。周囲の方々にも期待を持って送り出してもらった事もあり、せめてのフィニッシュゲートに辿り着けなかった事が申し訳なく感じている。決して簡単ではない100mileレースを改めて認識し、今回見直すべきところを徹底的に見直し、レース中に関する事だけでなく、レースに至るまでの準備に関しても、とりわけアイテム一つ一つにしても、余念なく丁寧に準備していきたい。そして再びこのUTMBの舞台で納得のいく走りができるように邁進する。
今回選択したシューズはS/LAB GENESIS。超長距離に向いたシューズで、特徴は優れたグリップ力・足へのプロテクションとクッショニング性。UTMBのコースは日本の山とは違い、ウェットな林道箇所もあったが、大部分はドライでゴツゴツした岩や土質のサーフェスが多い。このシューズのアウトソールには箇所によって異なったラグパターンが配置されており、そんなゴツゴツした岩のような局面にも安定して接地できるグリップを可能としている。また山のアップダウンに関しても、小刻みな登り下りではなく、連続した長い登りや長い下りが続く。少しでも足にダメージを蓄積しないように、いかに足元を保護するかが重要である。そこでこのシューズの持つプロテクションやクッショニング性が非常に有効である。また超長距離になると、疲労による体幹のブレから着地の際の足元が不安定になるが、シューズ側面に搭載されている左右プレートにより、着足の補正を可能として安定感を付加してくれるものである。またコース最高地点は2,500mを超えているため、雪が残っている箇所もあり、シューズが濡れてしまう場面も多々あったが、シューズの持つ速乾性により水捌けも良く、終始足元はノートラブルで進むことができた。実際に出場していた欧米選手の足元を見ても、このシューズをセレクトしている選手が多かった。
S/LAB GENESIS
S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。
板垣 渚 / Nagisa Itagaki
・Salomonアスリート
学生時の代陸上経験はなく、大学卒業前にホノルルマラソンに出場し、走る事の充実感・達成感の素晴らしさに出会う。
30歳を過ぎてトレイルランニングという競技を知り、山の様々な地形を駆け抜ける魅力にどっぷりと浸かる。練習環境は山が主体で、滋賀県大津市の比良山の麓に現在の住居を構え、山とランニングを楽しむ生活を送っている。
<主な戦績>
2019 奥三河パワートレイル 優勝
2019 比叡山ITR50マイル 優勝
2019 峨山道トレイルラン 優勝
2021 LAKEBIWA100 3位
2021 ひろしま恐羅漢エキスパートの部 優勝
2021 TAMBA100 3位
2022 奥三河パワートレイル 優勝
2022 UTMF 41位
2022 比叡山ITR 8位
「最強のマネージャーになります!」そう言って、尾藤朋美さんの付き人のようなことを始めたことがきっかけだった。尾藤さんは、2021年のサハラマラソンで、初挑戦にして日本人最高順位「準優勝」を記録。現在【世界一を目指すウルトラランナー】として活躍している。【最強のマネージャー】とは、そんな世界一を目指す尾藤さんを支えるマネージャーになるからには、マネージャーとして世界一、つまり最強でなければならない、という中学生のような安易な考えとネーミングで名乗り始めた。
今回、サハラマラソンに挑戦しようと思った理由は「尾藤さんが世界一を目指す舞台であるサハラマラソンを走ったことが無いままで【最強のマネージャー】を名乗ることができるのか?」「否。」と使命感に駆られ、出場を決めた。また、僕は尾藤さんのYouTubeチャンネルやInstagramの動画撮影・編集をしているのだが、その中で尾藤さんが2020年大会の動画を振り返り「もっと綺麗なゴールシーンが欲しい」と言っていた。そして「つっちー(筆者)が出るなら、先にゴールしてゴールシーンを撮ってもらえるね」と言った。それはそのまま僕がサハラマラソンを走る理由の一つになった。
サハラマラソン(正式名称:Marathon des Sables、略称:MDS)とは、1週間(全6ステージ)でモロッコのサハラ砂漠を250km走るステージレースだ。
開催時期は例年4月の一週間。開催場所はモロッコのサハラ砂漠だが、コースは毎年変わる。参加者は毎年1,000〜1,300人。参加のための条件はほとんどない。そして、完走率は例年90%を超える。
サハラ砂漠の気温は日中40℃、夜中は10℃。レース中に与えられるものは「水」だけ。それ以外の一週間分の食事や服、寝袋、その他必要な物は全て自分で背負って走る。寝床は砂漠の上に「黒い布のタープ」に「絨毯」という吹きさらしのテント。当然、風呂やシャワーはない、トイレも袋か野に放つ。スマートフォンの電波もほぼ繋がらない。どれをとっても、日本での日常からは想像できない環境だ。
それに加えて、出場のためのエントリーフィーは3770€(約55万円)ときた。国内のレースのエントリーフィーが可愛く感じてくる。過酷な環境に、大枚を叩いて走りに行く。その先にどんな物語が待っているのか、僕の体験談を書いていく。
2023年4月21日
大会の集合場所は、モロッコ・エルラシディア空港。集合方法は2つ。
① 現地集合
② フランスのシャルル・ド・ゴール空港に集合し、チャーター機でモロッコへ
②を選択した僕は、朝4時に空港へ向かった。空港にいるのは全員、サハラマラソン(以下、MDS)の参加者や関係者だ。息が白く染まるフランスを飛び立ち、モロッコを目指す。
約3時間、飛行機の窓から砂の大地が見えてくる。眩しい。そして美しかった。砂漠を初めて見て「こんなところを走ることができるのか」とワクワクしていた。空港に到着すると、モロッコのミントティーが出迎えてくれた。熱くて甘いなんとも言えない美味しさだった。そこからさらにバスで3時間かけて大会会場へ向かう。モロッコの街並みや自然を眺めながら進んでいく。
途中でレースのガイドブックが配布される。この時初めて、選手にレースの各ステージの距離や制限時間、コースが明かされる。レースは全部で5ステージ、4ステージ目に90kmのオーバーナイトステージと呼ばれる制限時間35時間のロングステージが用意されていた。その他のステージは30〜40km、制限時間10〜12時間となっていた。砂漠を走る自分をイメージする。そこには、軽快な足取りで無邪気に砂漠を走り回る笑顔の自分がいた。
2023年4月22日
「思ったより眠れた」
砂漠で初めての夜を過ごしてそう思った。夕方に砂嵐が来て、テントが潰れたり、身体中が砂まみれになったりとサハラ砂漠の洗礼を受けて疲れてしまっていたのだろう。レース当日までの食事は大会側が支給してくれる。前日のこの日も朝昼晩と食事が提供された。
朝食が済むと、レースの受付が開始された。エリートランナーは食事を含めた必携品の全チェック、ドーピング検査など入念なチェックが行われたが、一般ランナーはパスポート、200€、テクニカルシート(必携品のセルフチェックシート)の3点と荷物の重量チェック(水を抜いて6.5kg以上あること)のみでレースBIBを渡された。
夕食後、各々寝袋に入る。心許ない天井を見つめながら、まるで修学旅行の夜のように、テントメイトと語り合う。MDSに出ようと思ったきっかけや、これまでの人生と、これからのこと。ここには色んな背景や想いを持った人が来ている。ほとんど初対面の人達と酒も飲まず、川の字になって話をするのは少し可笑しくで、でもとても大切な時間だった。
2023年4月23日
▼1st STAGE
■距離:36km 累積D+510m
Result:56位/4:21:03
レーススタートのこの日から一週間、自分の持ってきた食料だけで過ごしていく。僕が用意した主食は【サハラ飯】と焼きそば。【サハラ飯】とは、山飯シェフゆかさんがオーダーメイドで作ってくれた、軽くて高カロリーなトレイルフードだ。初日の朝は、ビーフシチューリゾット。水を入れて10分放置、サハラ砂漠の暑さも手伝って、たったそれだけで本格的なビーフシチューがいただける。砂漠しかないこの環境でこんなに美味しい食事ができるなんて、と初日から感動していた。
スタート前、緊張感のある中、MCが始まる。サハラマラソンでは、各ステージ前にコースの紹介と注意事項、当日の変更点がアナウンスされる。続いて、その日のバースデーレーサーを紹介する。不思議な風習だ。
気がつけば時刻は定刻の8:30を過ぎている。細かいことは気にしない。
「3・2・1・GO!」
スタートと同時に飛び出す。世界レベルのレースを体感したい、自分がどこまで通用するのか試したい。出るからにはと、そんな思いも持ってやってきた。
レース序盤、10連覇を狙う絶対王者ラシッドよりも前を走る。オーバーペースか?と思うも、ここは砂漠。自分のこれまでのランニングの常識では測れない。行けるところまで行くと決め、押していく。世界トップレベルの走りを肌で感じた。高鳴る心臓の音が聞こえてくるようだった。
⑥初日スタート直後の写真「エリートの中で走る貴重な一枚」
CP1(13km)を過ぎて、砂が深くなっていった。ここまでのように踏み込んで走ろうとしても、脚が返ってこない。砂漠の深い砂の前で、反発は無力だった。ムキになって強く脚を踏み込むほど、その力は砂に吸収されていく。踏み込む力と一緒に気力まで吸い込まれていくようなそんな気分だった。
17kmを過ぎて、完全に足が止まった。思うように走れない、もどかしかった。レース前、妄想の中で砂漠を無邪気に走り回っていた僕は、そこにはいなかった。そして、尾藤さんにも追いつかれた。抜かされても追いかけることができなかった。それだけ気力が落ちていた。
「何の為に走るのか」
CP2(24.6km)地点のテントに腰を下ろす。深呼吸をして少し冷静になる。
「ゴールシーンを撮る」
僕の走る理由はそこにあった。尾藤さんの後ろにいては、それは叶わない。再び走り出す。しかし初日はついにゴールシーンを撮ることはできなかった。
「何の為に走るのか」
頭の中はそれでいっぱいだった。
●ステージ終了後の生活
ゴール後はテントに戻って、翌朝まで過ごす。別の場所に来たはずなのに、砂と山に囲まれたその景色は同じ場所に戻ってきたように感じさせる。
寝るまでにやることは、
① 洗濯
② シャワー
③ 食事
このくらいしかない。
洗濯は、トイレ用のゴミ袋に洗濯物と支給された水を入れて、揉み洗いをする。そんなに綺麗になっているわけではないと思うが、サハラ砂漠の暑さの中で干しておけば臭いは気にならなくなる。
シャワーはない。ので、自分で作る。支給されるペットボトルのフタに安全ピンで穴を開け、少量ずつ使えるように工夫をする。汗だくで砂まみれの身体を少しでも洗い流す。身体と心が少しリセットされる、そんな気がした。
食事は【サハラ飯】。夕飯にはチキンカレーを食べた。夕飯の時間は17時くらい、カレーのスパイシーな香りが食欲をそそる。
寝るのはだいたい20時前後、暗くなるとヘッドライトなしでは動けなくなる。自然と早寝になる。翌日以降もレースは続く、睡眠が最大の回復薬だ。
▼2nd STAGE
■距離:31.7km 累積D+760m
Result:113位/5:03:47
1st STAGEの反省を活かして、序盤はペースを落として走ろうと決める。しかし、ひとたび深い砂地に脚を踏み入れると、砂に気力を吸収されてしまう。そうなると最後、脚が止まる。
「砂漠が向いてないんじゃないか」
そんな言い訳で自分を誤魔化そうとする。
●2ndSTAGEステージ終了後
「何のために走りにきたのか」
それを見失った僕はテントの中、静かに横になっていた。ぐるぐると思考が巡る。
世界レベルでの闘い
ゴールシーンの撮影
このままでは何一つできないまま終わってしまうのではないか。サハラに行って、走って完走して、ただそれだけ。確かに走る前は「『所詮』マラソンでしょ?」と。1日3〜40kmパーっと走って終わるんじゃないか?と舐め切っていた。
現実はどうか。
世界の強さに打ちのめされ、砂漠をただ走ったり歩いたり、当然ゴールシーンも撮れない。
真っ黒な天井を突き抜けてくる日差しに嫌気が差しながら、レース前日の夜を思い出していた。テントメイトの1人が言っていた「人生を豊かに生きるには荷物を整理して余白を作る」ことが大事だと。僕も人生には「余裕」が大切だと常に思っていた。しかし、現状「余白」も「余裕」のどちらもなかった。「しなければならない」ことでいっぱいだった。
一つ大きく深呼吸をする。真っ黒な天井しか見えていなかった視界が少しだけ広がった気がした。
レース後の楽しみの一つに、【メッセージ】があった。MDSのWebサイトからレース期間中、選手宛にメッセージを送ることができるのだ。家族や友人、色んな人がメッセージをくれた。レースの状況を見てくれていた人たちからは、心配する声もあった。
情けない。
毎晩みんなからのメッセージで涙が止まらなかった。
振り返ると僕は水の貴重な砂漠の中で、レース中もゴール後も涙ばかり流していた。涙で滲んだメッセージを見ながら「明日も頑張ろう」そう思った。
▼3rd STAGE
■距離:34.4km 累積D+590m
Result:45位/4:19:49
「やりたいこと」の為に走ろう。「しなければならない」なんてことは無いのだ。僕の気力を奪い続けた深い砂地も、苦手なら無理して走る必要はない。苦手なことを受け入れて、諦めることも大切だ。
今、僕の「やりたいこと」は何か。マネージャーとして尾藤さんの役に立ちたい。そう思った時に今、僕にできることは、尾藤さんのYouTube用の素材集めだった。ゴールシーンだけがレースの様子ではない。どんなコース、どんな景色の中で走ってきたのか、それをYouTubeを通して多くの人に伝えたい、そう思った。
しばらくポケットに入っていただけのGoProを取り出す。僕はこの1年間、カメラを持って走ることを数多くしてきたし、最近ではそれが当たり前になっていた。周りの景色やレースの状況を吹き込む。時には他の選手とのコミュニケーション手段にもなった。僕が走る理由はそこにあると気付いた気がした。
この日のレースは後半10kmに山があり、そこまでも深い砂地が続いているというコースだったが、抜きつ抜かれつしていたフランス人男性と「ゴールまで一緒に行こう」とお互いを励まし合い、最後には手を取り合いFinish。3rd STAGEがいかに充実したものだったかを物語るゴールとなった。
ゴール後、上位選手の必携品チェックが行われており、そこに尾藤さんがいた。自然とカメラを回す。「我ながらいいタイミングでゴールしたな」と、一度もゴールシーンを撮るという本来の目的を達せられてないくせに、得意気になってしまうほど、レースを楽しめていた自分がいた。
▼4th STAGE(OverNight stage)
■距離:90km 累積D+1,330m
Result:224位/20:16:56
4日目のOverNight stageは90kmで制限時間35時間と、通常のウルトラマラソンの2~3倍長く制限時間が設けられている。そもそもMDSは制限時間に寛容なところがあり、ゴール地点の制限時間も、最終CPを制限時間内に出ていれば、多少過ぎてもOKといった具合だ。その寛大さもこの大会の人気の一つでもあり、高い完走率を維持している理由でもあると思う。
また、この日は3rd STAGEまでの上位50人が他のランナーよりも3時間遅れてスタートとなる。
日本人で上位50位に入っていたのは尾藤さん1人だった。僕はといえば、2nd STAGEでのメンタルブレイクの結果、3rd Stageまでで67位と後一歩及ばなかった。しかし、見方を変えれば3時間先にスタートできるということは、3時間以上タイム差が発生しなければ、先にゴールして尾藤さんのゴールシーンを撮ることができるということである。前日の3rd STAGEで自分らしい走りに気付くことができた僕は、これまでより少しだけ晴れた気持ちでスタートラインに立っていた。
CP4(48.7km)までは、お腹を下しながらも順調に進んできていた。時刻は14時過ぎ、なおも厳しい日差しが照り付けていた。CPで休むか、進むか。次のCP5までは14.6kmと大会一長いコースだ。自分の中に少しでも早くゴールをしたいという欲があったのだろう。休憩もそこそこにCPを後にする。
200mほど進んで気が付く。失敗した。暑い上に、深い砂地のコースが続いた。苦手を気にしないようにという走りはできたものの、この暑さから逃れることはできなかった。次第にふらふらと蛇行しながら歩くようになり、低い草の小さな日陰ですら恋しく、倒れ込むように上半身だけでも…と草陰に入って休んだ。さらに進むと、大きい岩が重なった場所があり、その岩に沿うように横たわり、しばし日差しから逃れた。
このCP4〜5の間、何度もリタイアを考えた。リタイアしたらゴールに先回りするから尾藤さんのゴールシーンを撮れるんじゃないか?という謎の思考まで働いていた。
それでも、ここでやめたら本当に何も残らない。リタイアになった自分を想像したらゾッとした。これから先、ずっと完走できなかったことを後悔して生き続けることになるだろう、とそう思った。そして、完走するための再チャレンジをするだろう、とも。そんな再チャレンジはしたくなかった。ならば、走り切るしかない。
次のCPまで残り5km、現地の人の仮宿なのか民家のような建物が見えてきた。リタイアしたくない思いとは裏腹に、その時点の僕はもう動けない身体になっていた。倒れ込むようにその民家が作る日陰に身を寄せる。ザックをおろし、靴と靴下を脱ぎ、身体に水をかけて冷やす。頭がぼーっとする。熱中症だ。太陽を見るたびに嫌気がさす。
しばらくして、1人の選手が民家の日陰にやって来た。尾藤さんだった。色んな意味で驚いた。3時間のスタート時間の差があったはずが、60km手前で追いつかれることになろうとは。
「リタイアしたらゴールシーンが撮れるかも」と考えていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。きっとリタイアしても間に合わなかっただろう。そんなことを思いながら、尾藤さんは少し休みを取り、ハンガーノック対策に食事の準備をして日陰を後にした。
結局僕は、18時までそこで身体を休めることになった。ようやく暮れかけてきた太陽を背に、進み始める。休んだおかげか、多少は動けるようになっていた。
それ以降は辛抱強く進むだけだった。あまり何を考えて走っていたかもわからない。無事にこのOverNight Stageを終える。それだけを考えていたのかもしれない。
ゴールしたのは夜中3時過ぎ。Finishラインは煌々と照らされ、爆音が鳴り響いていた。こんなに長い90kmは後にも先にもないだろう。
●4thSTAGEステージ終了後
4th STAGEの制限時間は35時間。スタートが4月26日の7時のため、ゴール関門時間は4月27日の18時だ。制限時間が近づくにつれ、ゴール付近が騒がしくなっていった。最終ランナーを出迎えるのだ。
先にゴールした選手たちが、次々とテントから出てゴールゲートへと歩いて行った。国や年齢、足の速さも関係ない。同じ道を90km進んできた同志として、讃えあう。先にゴールした選手も、それぞれの苦労があり、足を引き摺りながらも最終ランナーを出迎えにやってくる。
「なんという光景だ」
マラソン・ランニングをやっていて良かった。そう思える瞬間がそこには広がっていた。
▼5th STAGE(Marathon stage)
■距離:42.2km 累積D+560m
Result:25位/4:33:29
今日が実質、最終ステージ。MDSは7日間のステージレースだが、大会記録として計測されるのはこの6日目(5thSTAGE)までの合計タイム。7日目はチャリティステージと言って、レースの順位には関係のないファンランステージだ。
最終ステージで女子3位に着けた尾藤さんはレースに集中する為、自身のGoProを封印すると言った。前回出場時も最終ステージではGoProを封印していて、最終ステージの映像は遠目にぼんやりと映るゴールシーンしかなかった。
となれば、自分が撮らなくてどうする?
「何の為に走るのか」
この日まで僕は自分のために走った結果、一度も満足のいく走りができていなかった。そんな状態で、どこまでついていけるのか、不安しかなかった。それでも「ついていけるところまでついていこう。」本人に伝えることはなかったが、自分の中でそう決めた。
最後の号砲が鳴る。僕は右手にiPhone、左手にGoProを持って、様々なSNSで使えるように撮っておこうと、カメラを回した。無我夢中だった。女子総合3位のペースについて走り、前に後ろに、右に左に、時には離れてみたりして、縦横無尽に撮り回った。そこにはモロッコに着いた日のバスの中で妄想していた「軽快な足取りで無邪気に砂漠を走り回る笑顔の自分」がいた。
レース終盤、2位の選手の背中が見えてきた。尾藤さんのギアが一段上がる。尾藤さんの強さはこの粘り強さと爆発力だ。これについていかなければいけない。2位の選手を捉え、抜き去る。CP3(33.8km)、尾藤さんの爆速エイドワークに置いていかれる。ゴールまで残り10kmもない。
「ここまできて、諦めるのか?」
「ありえないだろう」
僕自身もレース初日のスタート直後に負けないスピードで追いかけた。
そしてゴール手前約1km、ゴールシーン撮影のために飛び出す。ゴールで大会主催者のPatrickが待っていた。僕自身のゴールはそこそこに、振り向いてカメラを構える。すぐそこまで尾藤さんは来ていた。
ゴール直後、複雑な気持ちだった。最終日こそ役に立てたものの、初日からずっと自分のことで精一杯だった。むしろ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも尾藤さんは「本当にありがとう」そう言ってくれた。今日までの失敗が無くなるわけじゃない、それでもその言葉に大粒の涙が溢れて止まらなかった。
結局、最後まで満足いくゴールシーンの撮影はできなかった。目的は達せられなかった。それでも、得たものはあった。「誰かの為に走る」そこに僕の走る理由があるということ。
5thSTAGEの最中、誰よりも多く周りの選手に声をかけ励まし、カメラを回してきた。「走りながら走る人を撮るって、走る楽しさを伝えたい」それが僕のやりたいことであり、できること。今回、世界3位となった尾藤さんの大会での走りをYouTube用に編集した。好評いただいていて、とても嬉しい。
走る場所・距離・時間、理由も人それぞれだ。みんな何かの為に走っている、僕はそのみんなの為にこれからも走り続けたい。
MDSに向けたシューズ選びは、あまり悩まなかった。MDSの3つの要素からSalomon S/LAB PULSARがすぐに思い浮かんだ。
「マラソン」→「早く走れる」
「砂漠(不整地)」→「グリップが効く」
「7日間走る」→「クッション性」
まず、僕の挑戦でもあった「世界レベルとの闘い」のために、とにかく速く走れるシューズを求めていた。実際、レース中に物理的に脚が重たいと思ったことはなかったし、5thSTAGEでゴール前のスパートをかけることができたのもこのシューズでなければできなかったと思っている。
MDSのコースは、僕が苦手とした深い砂地の他にも、大きな岩のガレ場や、水が干上がったような乾いた大地を走るなど様々なサーフェスを走った。その中でもSalomon S/LAB PULSARのグリップは安心して走っていけると感じさせられた。
最後に、7日間という連日走ることに関しては、そのクッション性が大きなサポートをしてくれた。足裏の痛みや脚そのものが痛むということは一度もなく、それだけにメンタルの面での失速がとても悔やまれるが、最後に一番レースを楽しむことができたのはこのシューズのおかげだった。次またMDSに挑戦する機会があったら、またこのシューズ・シリーズを選ぶだろう。
S/LAB PULSAR 2
記録更新を目指すトップアスリートをイメージした S/LAB PULSAR 2。S/LAB の最新技術とノウハウを駆使したこのモデルは、Matryx® メッシュ、ソックスのようなフィット感、最適なクッション性能を備え、足をやさしく包み込む新しいアッパーとヒール構造を採用。先行モデルに劣らない 183g(27.0cm) の軽さで正確かつダイナミックな走りを可能にします。まるでロードシューズのようなトレイルシューズで、走れるサーフェイスではPULSAR 2、テクニカルな地形ではSGと履き分けることでより特性を活かすことができます(土屋さんが着用しているのはS/LAB PULSARの初代モデル)。
土屋 恒貴 / Koki Tsuchiya
・尾藤朋美マネージャー / YouTubeクリエイター / ランニングカメラマン
学生時代は球技(野球、バスケットボール、水球、テニス)をしていたが、2015年社会人になるタイミングで1人でできる趣味を求め、トライアスロンを始める。
初のトライアスロン大会でラン5kmが辛過ぎて、ランニングを始める。サブ3を目標にするも、なかなか達成できずウルトラマラソンの道へ。2019年登山に出会い、現在まで日本百名山47座登頂。2022年2月に尾藤朋美と出会い、8月にマネージャーを名乗り始める。10月から尾藤朋美のYouTube撮影、動画編集を担当。
<主な戦績>
2019年6月サロマ湖ウルトラマラソン 09:08:11 PB
2019年8月 木更津トライアスロン 年代別 6位
2022年6月千葉南房総アクアスロン 年代別優勝
2022年8月SPARTAN HAWAII ULTRA 年代別優勝
2022年9月 SPARTAN NIIGATA BEAST 年代別4位
2022年10月 NozawaSpaTrail 4位
2022年10月 SHINSHIRO SPARTANTRAIL CLASSIC 21K 年代別3位
2022年10月 SHINSHIRO SPARTANTRAIL CLASSIC 50mile 4位
2022年11月 白馬岩岳TrailRace Autumn 4位
2022年12月 Beyond 2022 02:52:30 PB
2023年1月 ハイテクハーフマラソン 01:20:39 PB
2023年4月 サハラマラソン(MARATHON DES SABLES)250K 100位
2023年6月 DEEPJAPANULTRA100 100mile 6位
<ランニングカメラマン活動>
2023年1月 赤羽ハーフマラソン(尾藤朋美)
2023年2月 青梅マラソン30K(尾藤朋美)
2023年3月 球磨川リバイバルトレイル100mile(尾藤朋美)
2023年4月 ハセツネ30K(尾藤朋美)
2023年4月 サハラマラソン(MARATHON DES SABLES)250K(尾藤朋美)
2023年6月 SPARTAN MONT-TREMBLANT ULTRA(尾藤朋美)
<YouTube(主な作品 / TOMOMI FITNESS)>
【世界一過酷】砂漠250km走るサハラマラソン!日本人快挙、2大会連続入賞!
比叡山インターナショナルトレイルランは滋賀と京都にまたがる比叡山を舞台に開催され、第一回開催の2015年から今回2023年で9年目を迎えます。比叡山は天台宗の開祖である伝教大師最澄がこの地に延暦寺を築いた歴史ある霊峰です。延暦寺境内には根本中堂をはじめ、西塔、横川中堂と有名な建造物が並び、1200年の歴史と伝統が認められてユネスコ世界文化遺産に登録されています。そんな由緒ある比叡山で開催され、関西のトレイルランニングレースを代表するのが、比叡山インターナショナルトレイルランです。
2015年を第1回大会とし当初は50km部門だけの開催でしたが、50km部門に加えて、50mile(80km)、23km部門がそれぞれ加わり、2023年もその3部門で開催されました。私が出場した50mile部門は、比叡山延暦寺根本中堂前をスタートし、京都側に下っていき、比叡アルプスの登りを経ると辿り着くロテルド比叡前から、今度は滋賀県側である大津市坂本に下りて、比叡山高校のグラウンド横の登山ルートから裳立山を登って、根本中堂前に戻ります。これで約20kmの前半コースが終わります。その後、根本中堂前から延暦寺境内を走り、再び京都側に下りて、標高767mの横高山を登って、そのまま比叡山の稜線伝いに北上し、大津市仰木エリアを経て、再度根本中堂前に戻ってきます。ここまでが後半コースで50km地点となります。50km部門はここでゴールですが、50mile部門はここから再度この後半コースをもう一周(横高山の登りは省略)し、合計80kmとなります。
50mile部門は、何といってもその制限時間が厳しい事で有名です。そもそもの参加資格はフルマラソン3時間以内達成者、もしくは100km以上のトレイルランニングレースを完走した経験がある事が条件とされています。そんな選りすぐりのランナー達でも、この厳しい制限時間に苦しみ、大半は完走できずに涙を飲む事になります。50km部門の制限時間は11時間ありますが、50mile部門の制限時間は11時間30分という事で、その厳しさが分かると思います。屈強な猛者でしか挑む事ができず、そのうちの20%程度しか完走する事ができないため、比叡山50mileの完走はトレイルランナーの憧れでもあり、目指すべきレースとなっています。
トレイルランニングを始めて本格的なレースに出場したのが比叡山インターナショナルトレイルランの50km部門です。当時の私が経験していた最長距離はロードのフルマラソンであり、50kmも(しかもトレイルで)走る事ができるのかという不安しかなかった事を覚えています。その不安は案の定で、経験したことのないキツさが待ち受けていました。コース上で、最も斜度がきつく、苦しい登りの時間が続く横高山ではフラフラになり、コース終盤の横川中堂への階段(現在はコース変更になっており、通過しない)では足が使いものにならないので、手すりを使ってよじ登った記憶があります。そんな過酷なレースで私より1時間以上も早くゴールしているTOP選手(その年は大杉選手と大瀬選手が同着で優勝)があまりにも異次元で、表彰式に立つ姿があまりにもかっこよく映ったものです。
その翌年も私は50km部門に出場していましたが、その年から創設された50mile部門で優勝した土井選手が9時間そこそこのタイムでゴールしたことも衝撃を受けました。50km完走するのでさえもうこれ以上とても走れないという状態になるのに、そこからさらに30km走ってくるなんて。50kmの自分がゴールして、そんなに時間が経たないうちに、50mileのトップの選手がまもなくゴールを迎えますと会場のアナウンスが。ゴールに向かう土井選手の姿を間近で見る事が出来て、あまりのかっこよさにまたまた衝撃を受けました。
そこから2年後の2019年。比叡山で見たTOP選手に憧れて一生懸命実力を磨いて、様々なレースに出場する事で経験を積み、今度は自分が比叡山50mile部門のチャンピオンとなる事が出来ました。この時の達成感はそれまでに積み重ねてきた努力が実り、生涯忘れ得ぬ経験となりました。そこから、コロナ禍を経て再び開催された2022年の比叡山50mileレース。前回大会のチャンピオンとして招待選手という立場で参戦しました。しかしながら、その1ヶ月前のUTMFの結果が悔しいものに終わり、その時から調子を崩しており、その日も結果は8位。前回チャンピオンというプライドはズタズタにされ、そこから故障もあり、すっかり出口の見えない不調という暗いトンネルに入っていました。ケガも癒えず、やる気も削がれ、TOP選手に憧れて必死に努力し、結果を出した頃からは天と地の差で、いっそ走る事を辞めようと思っていました。
やる気が持てず自信も失っていた頃、こんな自分に声をかけてくれたのがトレイルランを通じてそれまで知り合った方々や、自分を支えてくれているサポートメーカーさんでした。ケガは必ず治るし、調子も戻りますから、続けていきましょうと。苦しい時に声をかけていただいたその方たちを決して裏切る訳にはいかないと心底から思いました。それからは、過去の自分の状態に必ず復活すると心に決めました。その過程で、とても仕上がっているとは言えない状態でレースにも出て、過去の自分と比べても歯痒く悔しい思いもしましたが、それでも一からやり直す気持ちで復調に向けて地道に努力を続けました。そして、再び自分に憧れとチャレンジを与えてくれたこの比叡山の舞台にまた挑むことを決めました。
スタートは午前8:50。この日は午後から雨予報ですが、スタート時点は雨雲の気配すらありませんでした。関西及びそれ以外の地域からも集まった128人のランナーが50mileに挑みます。私は完走する事が目標でなく、あくまでも入賞する事が目標でした。この日までに約4ヶ月をかけて身体を作り上げ、過去最低体重にまで絞り上げる事に成功していました。練習量もレース前月は累積獲得標高20,000mの練習を積んでいました。しかし、どれだけ練習してきても、結果を出す自信や入賞してゴールするイメージを失っていたので、スタートして走り出しても不安しかありませんでした。そんな不安を抱えながら取りうる戦略は、50mileを一定ペースで走り続ける事です。
決して周囲のペースに巻き込まれる事なく、50mileという長い距離の中で自分の走りをする事にだけ意識を置いてスタートしました。何のトラブルもなくマイペースだけを意識して、前半コースを終えてのタイムは2:21:32。2019年や前回大会と比較しても、決して早い通過タイムではありません。しかしながらまだ疲労は感じておらず、スムーズに後半コースに移っていきました。この時点での順位は5位。入賞するにはあと2つ順位を上げたいところでした。コース上最も険しいとされる横高山を登っている時に、1つ前の選手を追い越す事に成功しました。またしばらくすると、それまで先頭を走っていた選手が調子を崩していたため、勢いのまま交わして3位になりました。ここまでで25km地点を通過。例年より疲労度は低く感じていました。これはこのまま順位もさらに前へ上げていけるのではないかと自分に期待感が生じて、さらに前を目指していきたい気持ちが湧いてきました。
一旦山を下りてきてロード区間の始まる38km地点で、2位の選手が少し前に見えました。この選手はロードの登りでは歩きを織り交ぜながらの走りだったため、追い抜けるのではないかとこの時感じていました。それから2位の選手に追いついてはエイド滞在中に離されてを繰り返し、ようやくかわせたのは43km地点の延暦寺境内に入ってからでした。2位だった選手はハンガーノック気味だったようです。残すは1位の選手のみですが、その手前40km地点でロードの折り返し区間があるため折り返しで姿を確認すると、折り返し距離の差からタイムは10分少々ビハインドだと推測できました。その時点では残りまだ40kmあるため、逆転不可能な差ではないと感じましたが。すれ違ったその表情や走りにかなり余裕がありそうだとは思いました。しかし、レースではまだまだ何があるか分からないという事で、諦めずに前を追っていこうと思いました。
そして50km部門のフィニッシュ地点を通過し、50mile後半コースの2周目へ。ここから予報通りの雨が降ってきて、路面コンディションが一気に難しくなりました。一周目で難なく下ることができた急斜面のトレイルも雨でドロドロになり、滑り台状態に。50kmの選手で下り渋滞ができていましたが、その横をすり抜けていこうとした結果転倒し、そのままブレーキが効かないまま、急斜面をお尻から滑降することに。幸いにも擦り傷程度で済みましたが、身体中泥まみれになりました。引き続き、前を追う姿勢は見せましたが、通過タイム差を確認するとかなり空いていますとレース関係者から告げられ続けて、そこで内心、優勝を目指すことを諦めてしまいました。そのまま50mileのゴールを2位で迎えましたが、優勝選手とは約30分差でした。優勝選手は折り返し区間でお互いの姿を確認した後さらに加速したと思うと、差は歴然だったと思わざるを得ませんでした。
自分の得意なミドルディスタンスでの復帰戦でしたが、まずは準優勝という結果には納得しています。レース前から自分は速く走れるという自信があった訳ではなかったので、走り方に関しては序盤から攻めない走り方で、終始安定したペースで走る事を意識していましたので、その意味では予定通りの走り方ができたのかなと思っています。同大会は今年で6回目の出走(50mileは4回目)となるため、コースの走り方は熟知しているつもりです。それもあって中々攻めた走りができないのは、やむを得ないとは思いますが、今回はトップの選手を追う場面でも攻めきれていなかったという正直な感想です。
補給面でもジェルを少量(6つ持参し、3つ摂取)ですが、長い登りの前など適度なタイミングで摂取でき、あとはエイドにある素早く食べられるフルーツ等で補い、なるべくタイムロスを減らしつつ、エネルギー切れもせず走れたのかなと思います。ウェアリングも当日の気候に合ったもの(50km以降は雨で体感温度は下がりましたが、半袖で動き続けられた)を身に付けられたと思っています。レースとしては何も失敗する事なく、これまでの経験を踏まえて、万全の準備・姿勢で臨めたと思います。課題としては、優勝した選手や序盤に自分より上位にいた選手のスピードになるべく付いていけるように、スピードとその持続力をこれから出していきたいと思います。
比叡山インターナショナルトレイルラン50mileに必要なシューズの条件は、レース時間がそこまで長くないため、スピーディな足捌きを最優先とし、加えてウェットな地質からガレたサーフェス及び固いロード面に対応するグリップ力とプロテクション、そしてクッション性が求められると判断しました。また100mileレースではないため、それぞれの機能を万全に備えるとシューズ自体が重くなってしまうため、機能的かつ軽量シューズが求められます。
今回のレースで履いたのはS/LAB PULSAR 2 SGでしたが、重量が片足わずか203g(27.0cm)で、その軽さの恩恵を受けて、足が上がる感覚を最後まで持つ事ができました。またクッション性も適度にあり、ガレた路面でも下からの突き上げもなく、コンクリートなどの固い下り場面でも衝撃を吸収してくれたと思います。終盤は疲れてきて足が重く感じるものですが、少なからずこのシューズの軽さやクッション性によって軽減できたと思います。また足に接触するかかと部分がソフトな仕様になっているため、接触痛もなく、まさにソフトで快適な履き心地でした。
今回は50mile(80km)でしたので、このシューズの恩恵を受けた走りが出来たと思いますが、個人的にはこれ以上の距離で使っていくのはオススメできず、一定の強度を出力し続ける走り方だと長時間の接地衝撃に耐えきれずダメージを負ってしまうのではないかと思いました(ペースや走り方にもよります)。50kmまでの距離でしたら、高強度の走り方でもこのシューズの恩恵を受けられるのではないかという個人的な印象です。
S/LAB PULSAR 2 SG
史上最高のレースを目指すトップアスリートをイメージした S/LAB PULSAR 2 SG。S/LAB の最新技術とノウハウを駆使したこのモデルは、軽量で高強度かつ通気性にも優れたMatryx® メッシュと、最適なクッション性能で足をやさしく包み込む新しいアッパーとヒール構造を採用。先行モデルに劣らない軽さで不安定な地面をしっかりつかみ、ダイナミックな走りで加速を続けます。SGは「SOFT GROUND」の略で、通常のPULSARと異なりぬかるんだ柔らかい地面でもしっかりとグリップするパターンとなっています。
SENSE PRO 5 SET
数秒の遅れが勝敗に影響を与えるトレイルランニングでは、快適性と利便性が差をつけます。ミニマルデザインのSENSE PRO 5 は、摩擦が少なくフィット感も抜群。究極の快適性を実現しました。トレイルランニングの必需品を即座に出し入れでき、パフォーマンスの向上をサポートします。付属しているソフトフラスクもスムーズな出し入れを可能にする形状となっており、サロモンのランニングバックパックの中で最もコンペティティブなラインナップなっています。
板垣 渚 / Nagisa Itagaki
・Salomonアスリート
学生時の代陸上経験はなく、大学卒業前にホノルルマラソンに出場し、走る事の充実感・達成感の素晴らしさに出会う。
30歳を過ぎてトレイルランニングという競技を知り、山の様々な地形を駆け抜ける魅力にどっぷりと浸かる。練習環境は山が主体で、滋賀県大津市の比良山の麓に現在の住居を構え、山とランニングを楽しむ生活を送っている。
<主な戦績>
2019 奥三河パワートレイル 優勝
2019 比叡山ITR50マイル 優勝
2019 峨山道トレイルラン 優勝
2021 LAKEBIWA100 3位
2021 ひろしま恐羅漢エキスパートの部 優勝
2021 TAMBA100 3位
2022 奥三河パワートレイル 優勝
2022 UTMF 41位
2022 比叡山ITR 8位
2023年5月28日 8:30 AM – 1:30 PM
・SENSE RIDE5を履いてみたい
・サロモンのシューズを履いてみたい
・ほかのシューズとの違いが知りたい
など、どなたでもご参加いただけます。起伏はありますが走りやすい、シューズを試すのにあったコースをご案内します。
SENSE RIDE 5 は、前モデルよりクッション性、グリップ力が増し、短距離のハイペースランでもウルトラディスタンスでも本領を発揮する万能トレイルシューズです。
※十分な数量のテストシューズを用意しますが、サイズが重複する、足型が合わない場合は他のモデルをご使用頂くか、ご自身のシューズをご使用頂く場合もございます。あらかじめご了承くださいませ。
【注意事項】
※イベントの内容、スケジュール等の詳細は申込時にお問い合わせくださいませ。
※天候によりイベントを中断・中止する場合がございます。
※貴重品のお預かりは致しかねます。
※本イベントで加入する保険は簡易保険(1,500円/1日×通院日数)となりますので、個人での山岳保険加入も推奨します。
※コロナ禍における適切なマナーを遵守しイベント運営を行います。
誰かの何気ないひと⾔が、その後の⼈⽣に啓⽰のような⼤きな影響を及ぼすことがあります。誰しも、思い当たる節があるのではないでしょうか。⾃分にとってそれは、世界有数の過酷なトレイルランニングのレース「Barkley Marathons」に他なりません。その全容を知れば知るほどに魅了され、⽣涯で 100マイルレースを100本⾛ると決めた⾃分のなかでも特別なレースです(井原選手のポッドキャストでこれまで走ってきた100マイルの軌跡を知ることができます-100miles100times)。
Barkley Marathonsは、テネシー州のフローズンヘッド・ステート・パークのトレイルコースとオフトレイルを使って⾏なわれる100マイルレースです。距離は約45km、累積標⾼は約4500mの周回コースを、制限時間の60時間以内に5周しなければなりません。数字を⾒てわかる通り、100マイル(約160km)を謳いながら実際には200km以上、かつ20000m以上の累積標⾼を⾛る過酷極まりないレースです。ちなみに、60時間以内に5周すれば「フィニッシャー」、40時間以内に3周すれば「ファンランナー」の称号が与えられます。
さらに難易度を⾼めるのは、コースマーキングがないうえに、GPSや⾼度計などの普段のレースでは⽋かせないデジタルギアが使⽤できないというレギュ レーションです。周回中はサポートも受けられません。頼れるのは、地図とコンパス、そして⼰の智慧と経験と⾁体のみ。ルートファインディングしなが ら、周回した証として13〜14地点に隠された本(通称、ブック)を⾒つけ、⾃分のビブナンバーと同じページを破り、スタート/ゴール地点の通称イエローゲートまで持ち帰らないといけません。
また、完⾛者が出るとコースの難易度が増していくというレースディレクターであるラズことラザルス・レイクの“ありがたい”配慮もあり、1986年からの レース史上、2022年時点で完⾛者は15⼈のみ(複数回完⾛した強者を数えても延べ⼈数で18⼈)。過去5年に⾄っては、完⾛者ゼロです。
エントリー⽅法もユニークです。多くは語れませんが、どうにかしてラズの メールアドレスを探し出し、ある⽇のある時刻にレースに出たい想いをしたためたエッセイを送らなければなりません。毎年最⼤で40名しか⾛れないレースに、1000通近くのエントリーがあるといわれます。なぜ多くを語れないのか──。例えば、レースの開催⽇などを事前に公にしてしまったら、⽣涯にわたってBarkley Marathonsを⾛ることができなくなるからです。
⾃分は幸いにも2018年、19年、22年、そして今年23年と4回の出⾛が叶っています(21年はコロナ禍の影響で⽶国内の参加者のみで開催)。15名の完⾛者の内訳は⽶国と英国籍のランナーのみ。⽇本のナショナルレコードは、19年に⾃分が3周するまで1周でした(つまり、参加初年度は1周すらできず)。22年はケガもあり2周というのが、⾃分のリザルトです。
Barkley Marathonsを⾛るまではDNF(Did Not Finishの略。途中棄権、リタイアを表す。)をしたことがなかったので、どれだけ完⾛者がいなくても、⾃分なら⾛り切れるのではないかという淡い期待を抱いていましたが、そんなものは無惨にも散りました。出⾛者に保証されているのは失敗のみ。“夢の墓場”といわれる所以です。
⾃分のBarkley Marathonsへの準備は、DNFしたその瞬間から始まります。⽇々のトレーニングはもちろん、帰国してからBarkley Marathonsまでにエントリーするレースも常にそれを意識したものになります。
22年でいえば、彩の国やタイで開催されたDoi Inthanonといった100マイル レース、23年年初の298kmを60時間以内に⾛るHong Kong 4 Trails Ultra Challenge(HK4TUC)は、Barkley Marathonsを仮想してのこと。どのレースやチャレンジにもそれぞれの難しさがありますが、そのなかでさらにターゲットを定めて⾃分を追い込んでいきました。また、仲間にサポートしてもらい地図読みのトレーニングも取り⼊れ、Barkley Marathonsを⾛り切る⼒を蓄えるために出来る限りのことを尽くしていきました。
途中、無理がたたって帯状疱疹になったり、ケガをしたりすることもありましたが、納得のいくトレーニングを積んでいくことができました。もっとできることがあったかもしれないと思うこともあります。
しかし、過去3回⾛ったときに感じた恐怖⼼のようなものは、⼀切なし。そうした境地に辿り着き、3⽉3⽇にテネシー州のフローズンステートパークへと出国しました。レースまで約10日間は試⾛が許されたエリアを⾛り尽くし、地形や “コースになるであろう”ルートの特徴などを⾝体に刻み込みます。コースは前⽇の⼣⽅にマスターマップが配られるまでわかりません。配られたら即座に試⾛で記憶したそれらの情報をマスターマップの情報とあわせて、⾃分のマップに書き写していきます。
そうこうしているうちに、前⽇の夜8時。イエローゲートのそばに張ったモンゴルの遊牧⺠が使うゲルのようなテントの中で眠りにつきました。
⽬が覚めたのは、早朝5時過ぎ。⼗分な睡眠は取れているし、遅くとも5時間以内に法螺⾙が吹かれることを考えると、⾝⽀度を始めるにはちょうどいいタイミングでした。ちなみに、法螺⾙が吹かれた1時間後にスタートするというのも、Barkley Marathonsのユニークなルールです。
テント内でゆっくり⾷事をとり、テーピングを巻き始めたころ、法螺⾙の⾳が鳴り響きました。時刻は8:54。1時間後に4回⽬のBarkley Marathonsへの挑戦がスタートします。
昨年のBarkley Marathonsが終わったその⽇から、今⽇という⽇を意識してやれることはやり尽くしました。なにより⾃分には過去3回の“経験”があります。もちろん、ここまでの家族や友⼈、メーカーのサポートのおかげもあって、これ以上にない状態でスタートラインに⽴つことができました。
スタートラインに⽴つと、ラズから時を刻む以外になんの取り柄もなさそうな時計を渡されます。レース中、装備できる唯⼀のデジタル機器。あとは⼰の智慧と経験と⾁体だけが頼りです。
いよいよタバコに⽕がつけられると同時に⼿元の時計が「0:00」を指し、40⼈の“仲間”とともに2023年のBarkley Marathonsがスタート。4周⽬までの周回⽅向は予め決まっていて、時計-反時計-反時計-時計の順に回ります。そして、5周⽬は最初に帰ってきたランナーがどちら回りにするかを決め、その後は到着順に時計-反時計を互い違いに振り分けられていきます。
今年は昨年とコースが同じ。地図を⾒なくても迷わず進んでいける。ブックの隠し場所も昨年と⼤きな違いはなく、むしろ1つ少ない。これ以上にない追い⾵が後押しして、1周⽬は⽬⽴ったトラブルやミスもなく順調すぎるほどに コースを回れ、想定より約15分も早い9時間15分ほどでイエローゲートに帰ってこられました。エイドで15分補給をし、9時間30分で2周⽬へ。
しかし、2周⽬は反時計回りで、かつ夜間。コースの難易度は格段に上がります。また、寒さへの対応も必要になります。コースの中間地点にあるThe Towerと呼ばれる場所に配置されたペットボトルの⽔は、当たり前のように凍ります。こういう時こそ、慎重にならなければならないのに、コースを“熟知”しているという余裕からか、尾根を下るときに⼩さなミスを重ねていってしまいます。⾃分では感じていない焦りがあったのかもしれません。
やがて時間は少しずつついばまれ、3周⽬を終えたのは関⾨の約5分前。⾒かねた別のランナーのサポートたちが⾃分を4周⽬に送り出そうと、インディカーのピットクルーの如く補給⾷や装備を詰め込んでくれ、どうにか23秒前にイエローゲートをあとにすることができました。間⼀髪。
少し冷静になろうと、途中でザックの中を整え、持ち物を確認していくと持つべき補給⾷やギアが⼊っていなかったり、そもそもエイドでとるべき補給が⾜りていなく、まったく前に進めていない⾃分に気づきます。何度か持ち直し、 5周⽬をめざしたものの、そのリアリティが薄れたときに今年のBarkley Marathonsを終えることを決⼼しました。
⽇本から映像を撮りにきてくれた仲間にDNFを伝え、イエローゲートに戻ると鳴り響く「葬送のラッパ」。それは、⾃分の来年のBarkley Marathonsが始まりを告げる合図でもあります。今年は驚くことに完⾛者が3⼈。しかも、フランスとベルギーという、これまでとは異なる国籍。しかし、彼らの実績を⾒れば納得の結果といえるでしょう。来年のBarkley Marathonsまで、あと300⽇と ちょっと。来年の今ごろ、今度は⾃分が向こう側に⽴つために、⻑くも短い1年が始まるのです。
今回のBarkley Marathonsで履くシューズの条件は、オフトレイルを進むためのグリップ⼒と超⻑距離を⾛り切れるクッショニングを備えていること。「 S/LAB GENESIS」と「S/LAB ULTRA 3 v2」のコンビネーションは、それらを必要⼗分に満たしてくれました。リニューアルしたS/LAB ULTRA 3 v2は、⾜型はそのままでS/LAB GENESISと同じ⾼強度のMatryx®アッパーに変更され、Barkley Marathonsの過酷さにも耐えうるものでした。また、22年のバックヤードウルトラ以来、愛⽤しているソックス「S/LAB NSO VERSATILITY」は、程よいコンプレッションに加え、ハイソックスらしく寒さや草⽊の擦れから守ってくれる頼もしい相棒でした。
S/LAB GENESIS
コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。S/LAB ULTRA 3 v2に比べクッション性が高く、かかと外側と土踏まず付近に配されたプレートが足のブレを抑えてくれるので、100マイル以上の距離でも頼りになるシューズです(詳細なレビューはこちらの記事で確認できます)。
S/LAB ULTRA 3 v2
S/LAB ULTRA 3 ファンのために、ベストセラーの所以たる快適なフィット感と長距離向けのライド感はそのままに、アッパーを改良して 10% の軽量化を実現。通気性と耐久性の高い新しい Matryx® メッシュがソックスのように心地よくフィットします。ミッドソールのクッション性も相変わらず抜群。Contagrip® アウトソールがどこまでもパワフルな走りをサポートします。あくまで記録に挑戦するS/LABカテゴリーレベルなので固めなフィーリングではありますが、Salomonらしい接地感も残したシューズです。
S/LAB ULTRA KNEE
※S/LAB NSO VERSATILITYに近しいモデルを紹介しております。
ウルトラディスタンスのために開発された S/LAB ULTRA KNEE は、トリガーポイント(〇部分)に Resistex® Bioceramic ファイバーを使用することで微小循環系の働きを高め、エネルギーリターンを向上。軽いコンプレッションで筋肉をサポートし、速乾性に優れた配合で履き心地も快適です。長時間着用しても気にならない、程よい着圧のソックスです。
井原 知一 / Tomokazu Ihara
・Answer4アスリート / Salomonアスリート
・株式会社TOMO’S PIT代表(Facebook / Instagram)
※オンラインコーチング
2007年当時、身長178cm・体重98kgの肥満体系であったが、ダイエット企画の社員サンプラーとなり毎日30分トレッドミルを走り続けた結果、3ヶ月で7kgの減量に成功。それ以来、走ることがライフスタイルとなりトレイルランニングと出会う。夢は、100マイルを100本完走するとともに走る楽しさを広げていくこと(2022年12月時点で100マイルを64本完走)。
やる気を奮い立たせ、心を動かす、人気アスリートのプレイリストと厳選された音楽がラインナップした、
サロモンのSpotify公式チャネルが誕生しました。
長距離走から短いジョギングまで、そして、ロードランでもトレイルでも、
より長く、より速く、次のレベルに進むためのバラエティ豊富なプレイリストをご用意しています。
季節の音楽や、リカバリー、ロードトリップ、ランニング用などを始めとする、様々なプレイリストをお楽しみください。
「足用のジェットパックのようだ」 これは、まったく新しいレベルへと導く速さと楽しさをもたらすテクノロジーであるエナジーブレードを搭載したシューズを履いて走った後の、プロアスリートと製品テスターのチームからの、様々な驚きのコメントの1つにすぎません。 しかしながら、エナジーブレードとは一体何なのでしょうか? それはどのように機能し、どのようなメリットがあるのでしょうか? そして、それはどのようなランナーのために開発されたのでしょうか?サロモンのエナジーブレードはあらゆるタイプのランナーにスピードをもたらします。この記事では、この注目のテクノロジーについて、余すところなく説明します。
エナジーブレードは、サロモンの新しいテクノロジーであり、ストライドにパワーと推進力を与えます。 ソールに搭載された軽量で反発力のあるプレートが、前へと押し出し進みやすくする跳躍的効果を生み出すことにより、ランニング効率を向上させます。 公式レースでプレート搭載のシューズを履いて走り、PBを更新したことにエキサイトしたランナーに話を聞いてみました。
サロモンは、ランニングとアウトドアにおける体験を高めるために、跳躍台のように機能してストライドにパワーと推進力を与える、軽量で高反発のプレートを開発しました。 また、サロモンが様々なアスリートの特定のニーズに合わせて、正確に設計された様々なモデルのシューズを提供しているように、当社の専門家は様々な剛性、形状、素材を特徴とするそれぞれのスポーツに特化したエナジーブレードテクノロジーを開発し、 私たちのコミュニティの期待を超える製品群を提供します。
ロードランニングラインナップのいくつかのシューズは、独自の製造プロセスで生み出される複合繊維のプレートを備えています。これにより、各モデルの足裏の特定エリアで剛性を変化させて、着地からより早く次の一歩を踏み出すよう推進し、無駄を省くことでランニング効率を向上させます。
サロモンの先駆的なトレイルシューズ開発チームは、驚愕の速さで走るシロイワヤギのひづめにも触発され、快適に走るための十分な柔軟性を維持しながらも、跳躍台/ロッキングチェアの効果ももたらす、弾力性のあるミッドソールに組み込まれた軽量のTPU注入複合プレートを設計しました。ただし、エナジーブレード自体は単独では機能しません。 新しい弾力性のあるミッドソールフォームテクノロジーであるブレードと、ロッカージオメトリの相乗効果が前へと進む力を活性化し、どのような状況でもスムーズで安定したトランジションを生みだします。
ハイキング用のエナジーブレードは、柔らかく弾力性のあるミッドソールと一体となって機能する軽量のTPUプレートを備えています。 前足部に搭載され、地形からくる「ノイズ」を取り除き、スムーズでダイナミックなストライドを提供します。
サロモンシューズに搭載のエナジーブレードテクノロジーによって、さらに遠くまで、より速く、より快適に走ったりハイキングしたりすることができます。
2つのキーワード:パワフルな前進力。 エナジーブレードは、素早い踏み出しと、より簡単でより滑らかなストライドを提供します。 より速いペースのロードランニングには、ランナーに比類のないエネルギーリターン、素早い踏み出し、かかとからつま先へのバランスの取れたトランジション、そしてより速く、より快適な走りをもたらす強力な推進力を提供する、より剛性の高いエナジーブレードが必要です。 この新しいテクノロジーは、ランナーが走るたびにより速くなるために必要なツールを提供します。
トレイルランニングシューズでは、エナジーブレードがエネルギー伝達を生み出し、安定性を損なうことなく、ストライドを通してスムーズで安定したトランジションを提供し、前方へと弾むように推し進めます。このことはより速くなるというだけではなく、より快適に少ない労力で距離を伸ばすことができることを意味します。
ハッピーな足、ハッピーなハイカー。サロモンのアウトドアシューズでは、エナジーブレードが起伏の多い地形をフィルタリングしスムーズでダイナミックなストライドを提供。さらに、プレミアムなエネルギーリターンを生み出します。そして、楽しく、期待以上にエネルギーで満ちたハイキングシューズがあなたを前へと推し進め、アウトドアアドベンチャーによる疲れを軽減します。
サロモンでは、すべてのランナーがアスリートであると確信しています。そのため、さまざまなランナー特有のニーズと目的に合わせて微調整された技術ソリューションを提供することに取り組んでいます。 そのため、エリートレベルで競技に取り組んでいる場合でも、初めてのランニングシューズを履く場合でも、当社のプロダクトデザイナーは、可能な限り最高のシューズを提供するために寝る間も惜しまず技術開発に取り組んでいます。
たとえば、スキルレベルの異なる約100人のアスリートを対象に生体力学的研究を実施したところ、すべてが同じベネフィットを受けているわけではないことがわかりました。 言い換えれば、能力の異なるランナーは、異なるエナジーブレード構成によってより多くのベネフィットを得ました。 (研究は「ランニング効率の向上」=より少ない酸素消費量で設定された距離を走る、に基づく)。
これらの調査結果に基づいて、時速15 kmを超える速度で走行するランナーにフォーカスした、非常に剛性の高いブレードを備えたS/LABPhantasmCFを、そして、平均時速10〜15 kmのランナーのためには、Phantasmを設計しました。 また、Specturは、最も剛性の低いエナジーブレードを使用しており、時速10km未満の速度で走行するランナーを対象としています。
Pulsar Trail Proは、反応性と安定性の両方を備えたシューズでTPU混合プレートをトレイルランニングに取り入れました。 TPU混合エナジーブレードは、すべてのストライドで失われるエネルギーを制限することにより、ランナーにより多くのパワーを与える優れたプレートです。 分離された構造により、Pulsar Trail Proは十分な柔軟性を備えているため、優れた安定性と快適性を保ちます。
応答性と安定性があり快適なPulsar Trailには、Pulsar Trail Proと同じテクノロジーが搭載されていますが、エナジーブレードTPU混合プレートがわずかに柔らかく、より柔軟性があります。
また、より柔らかいエナジーブレードが、弾力のあるHypulseや多用途のImpulseなど、経験の浅いトレイルランナー向けの、手の届きやすいモデルで使用されています。 つまり、プレートアシストシューズの快適性とスピードの向上を楽しむために、ワールドクラスのアスリートである必要はありません。
Outpulse GTXとOutpulse Mid GTXは、エナジーブレードアウトドアを中心に構築されており、柔らかく弾力性のあるミッドソールと一体となって機能する軽量のTPUプレートを搭載しています。 前足部に配置され、地形のノイズを取り除き、ハイキング中にスムーズでダイナミックなストライドを提供します。
…より速く走り、自己ベストを更新するために必要な、新しい何かを求めている。しかし、速さを求めるのはレコードを追いかけるエリートランナーだけではありません! 何十年もランニングをしている場合でも、走り始めたばかりでも、可能性を最大限に引き出すことができるあらゆる利点を提供するランニングシューズのテクノロジーに興味があれば、エナジーブレードが最適です。
…安定性を失うことなく、さらに速く、より速く進むことを可能にする革新的な新しいシューテクノロジーを夢見ている。エナジーブレードは靴紐を締めるとすぐに起動する準備ができている、足用のジェットパックのようなものです。
…さらに遠くへと、もっと楽しみたい。エナジーブレードは、卓越したエネルギーリターンを提供するシューズの優れた快適性と効率の向上からベネフィットを得るすべてのハイカーにパワフルな前進力を提供します。
エナジーブレードはあらゆる種類のアクティビティで卓越した結果をもたらしますが、この驚くべきテクノロジーの恩恵は、
ウルトラトレイルであれ、近所のカフェまでの散歩であれ、少しでも効率よく推進力を得たいと思う人であれば誰でも享受することができます。
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