ソフィア・ラウクリに神戸で聞く:クロスカントリースキーとトレイルランニングの頂点を目指して

Golden Trail World Series(GTWS)は2018年に設立されて以来、トレイルランニングにおける世界の頂点を決めるシリーズ戦としてその存在感を高めています。そのGTWSで2023年の女子チャンピオンとなったのがサロモンアスリートのソフィア・ラウクリです。

2023年のシエール・ジナールで優勝したソフィア・ラウクリ。@TheAdventure Bakery / Sierre-Zinal / Golden TrailSeries

アメリカ・メイン州出身でユタ大学のクロスカントリースキーチームに所属、2022年の北京冬季五輪に米国代表選手として出場するなど、スキーヤーとして活躍する彼女がトレイルランニングに取り組むようになったのは2022年のこと。ランニングでも才能を発揮したソフィアはサロモンのトレイルランニングアスリートに加わります。大学を卒業した2023年にはサロモンのクロスカントリースキーチームにも加わり、両方の競技でサロモンと強力なタッグを組むことになりました。

2023年のGTWSではモンブラン・マラソン、シエール・ジナール、パイクスピーク・アセントという欧州、米国の歴史ある名レースで次々に勝利を上げます。ソフィア・ラウクリの名は、あっという間にトレイルランニングでもトップ選手として世界中で知られることになりました。

23歳でクロスカントリースキーとトレイルランニングの両方で世界的なアスリートして活動するソフィアは、2024年のGTWSの開幕戦となった「神戸トレイル」に参加するため来日しました。故障からの回復の状況を見極めた結果、神戸でレースには参加しなかったものの、来日中もジムでのトレーニングに励み、アスリート仲間のレースを見届けた彼女にお話を聞きました。

神戸のトレイルは走れなかったが、日本滞在を満喫

「3週間前にスキーのシーズンが終わったばかりだけど、すぐに切り替えてしっかり走れるはず、冬の間もランニングの練習はしていたから。そう思っていたんだけど。」インタビュー前日の記者会見で抱負を聞かれたソフィアは心残りな様子で神戸トレイルを見送ることを明らかにしました。クロスカントリースキーでは今年1月のイタリア、バル・ディ・フィエンメでW杯での初白星を勝ち取り、充実したシーズンを終えたばかりですが、冬のスキーから夏のトレイルランニングへのトランジションは今年で二度目で、まだ慣れないといいます。

「膝と足首にちょっと不安があって、こういう時に無理にレースをしてシーズンを終わらせたくないと思いました。スキーシーズンの後、4月にレースを走るのは早すぎるんだとわかりました。」

故障からのリカバリーのため、神戸でもランニングは控えて室内でのトレーニングに励んだ。@Colin Olivero / Kobe Trail / Golden Trail Series

「トレーニング自体は、両方の競技でうまく補い合っていると思います。スキーのトレーニングは持久力を高めるのに役立ち、ランニングのパフォーマンス向上にもつながっています。」

「一番の課題はシーズンの移行期で、スキーシーズンが終わるとすぐにランニングシーズンが始まり、ランニングが終わるとすぐにスキーが始まります。体と心をリフレッシュする時間を十分に取ることが難しいのです。」

「私は負けず嫌いでカオスのような状況も好きだから、スキーとランニングで一年中レースができるのは楽しいです。でも、休養も必要で、レースをしたいのに見送らなくてはいけないのはつらいですね。」

神戸トレイルのレース当日は大会のスタッフに交じって、仲間の選手たちに補給のためのドリンクを手渡しながらレースの様子を見守りました。レースに出られなかったことはソフィアにとって残念なことだったに違いありません。しかし、初めて訪れる日本の印象を尋ねると、目を輝かせていきいきと答えてくれました。

「他のレースや会場だったら、レースを見ているだけで辛く感じたでしょうね。でも日本は他の場所とは全く違う、ユニークでクールな経験ができる場所です。だから、そんなに悲しくは感じていません。」

「他の選手よりも少し早めに来て、神戸の街を歩きました。山の近くにこんな大きな街があって圧倒されました。本物の日本食、神戸ビーフもラーメンも、ケーキも食べて。新しい食べ物を試すのが大好きなんです。温泉も体験しました。自分で検索して調べて、一番近くにある温泉に行きました。スキーでもランニングでもレースのための旅行ではこんなふうにその街を探索する余裕がないのですが、今回は日本の文化を楽しむことができました。」

才能を開花させながらも、現実を受け入れて前に進むことの大切さも知る

初めての日本滞在でグルメや温泉を楽しんだという話しからは、ありふれた23歳のアメリカ人女性のように感じるかもしれません。しかしソフィア・ラウクリは昨年の世界のトレイルランニング・シーンで最も活躍した女性アスリートの一人です。とりわけ、6月のモンブラン・マラソンでは2位のヤオ・ミャオを12分以上引き離す圧倒的な勝利が話題となりました。

「去年は大学を卒業すると、すぐにトレイルランニングのシーズンが始まりました。最初に走ったモンブランは最初から飛ばしすぎてはいけないと聞いていたので、前半は余裕を持って走っていました。それなのに後半の登りの途中では熱中症気味でちょっとフラフラし始めて。きっと誰かに追い越されると思っていたら、後ろの選手は10分以上離れていると知らされました。そこからは必死になって完走したんです。あんなふうに優勝できたのは自分でも驚きでした。」

しかし、モンブランでの優勝は決してまぐれではなかったことを、8月のスイスでのシエール・ジナール、9月のアメリカでのパイクスピーク・アセントでの勝利で証明してみせました。パイクスピークではレース終盤までジュディス・ワイダーのリードを許しながらも、作戦通りに最後の4キロを過ぎてから一気にリードを奪う巧みなレース展開で優勝しています。ただ、11月のイタリアでのGTWSグランドファイナルでは首位を逃して2位にとどまりました。

「2023年は私にとってほぼ完璧なシーズンで、GTWSの三つのレースで連勝できたのはエキサイティングな経験でした。」

「グランドファイナルは自分でもベストなコンディションではないと自覚していました。冬が近づいていてスキーのためのトレーニングにも時間を費やしていましたから。他の選手がしっかり調整していることを知っていたこともあって、グランドファイナルは辛いレースになりました。レースでは常にベストを尽くしたいから残念でした。」

「でも、もし私がベストの状態でグランドファイナルに臨んでそれで負けたとしたら、それも辛かったでしょう。すべてのレースで完璧を求めることはできない。そう考えてからは次のステップに進むための切り替えができるようになりました。」

GTWS、冬季五輪、そしてその先

昨年のトレイルランニングでの成功に満足するだけでなく、思い通りにならないレースでもがく経験もしたソフィアは、今シーズンはどんな目標をその胸に抱いているのでしょうか。

「2023年のGTWSでの成績は自分自身への高い基準になりました。今年はそれを上回ることを目標にしていますが、世界中から強い選手が集まる中で連覇を達成するのは簡単ではありません。でも、私はチャレンジを続けます。」

今回の神戸でのレースをスキップしたことで、GTWSの第3戦となる5月のゼガマ・アイスコリ(スペイン)が彼女にとってのシーズン開幕戦となります。その後は昨年自らの飛躍の舞台となった6月のモンブラン・マラソン(フランス)、8月のシエール・ジナール(スイス)へと転戦します。そして秋になれば再びクロスカントリースキーのシーズンを迎えます。

「スキーヤーとしては、2026年のミラノ・コルティナダンペッツォ冬季五輪が当面の目標になります。ただ、スキーだけでなく、ランニングと両方で強い選手になりたいという気持ちを持っています。」

23歳のアスリートにさらにその先の目標を聞くのはまだ酷かもしれません。ソフィアは「特にランニングの方は自分でもまだ初心者だと思っていて、長期的な目標は思い浮かばない」といいながらも、自らの将来について話してくれました。

「二つのスポーツに並行して取り組んでそれぞれで最高のパフォーマンスを発揮できることを証明したいと思っています。それができたら、スポーツ選手としての私のキャリアの中で最も誇りにできる成果になるに違いありません。」

トレイルランニングとクロスカントリースキーという二つのアウトドアスポーツの両方で挑戦を続ける。そんな目標を共有して、ソフィア・ラウクリとサロモンはさらなる高みを目指します。彼女の今後の活躍に期待が高まります。


ソフィア・ラウクリを支えるサロモンのトレイルランニング・アイテム

S/LAB PULSAR 3

S/LAB Pulsar 3 は、短距離の激しいトレイルレースで高速の走りを実現します。軽量でダイナミック、かつクッション性に優れたこのシューズは、不確かな地面をどんなに速く走っても、最適なグリップと正確な足運びを可能にします。足の動きに合わせてフィットする革新的なアッパーデザインとレーシングシステムの快適な履き心地も魅力です

S/LAB PULSAR 3

S/LAB Pulsar 3 は、ショートランの水分補給に最適な軽量でシンプルなベスト。250ml ソフトフラスクが付属した 2 つのフロントポケット、バックに 500ml フラスクやジャケットが入るハイブリッドポケットなど、さまざまなニーズに対応します。SensiFit™ と Quick link で体にぴたりと密着し、安定感抜群です。


Sophia Laukli/ソフィア・ラウクリ

プロフィール

競技 クロスカントリー

国籍 アメリカ

出身 ヤーマス

誕生日 2000年6月8日

サロモンアスリート 2023年より

笑顔で限界に挑むウルトラランナー、コートニー・ドウォルターが6年ぶりの日本で話したこと

2024年4月、サロモンアスリートのコートニー・ドウォルターが富士山麓で開催された100マイルのトレイルランニング・レース「マウントフジ100」に参加するため来日しました。昨年はウェスタン・ステイツ、ハードロック100、そしてUTMBという世界中のトレイルランニングファンが注目する夏の三つの100マイルを相次いで制する偉業を成し遂げたコートニーは、世界最強のトレイルランナーだといっても過言ではありません。

今回のマウントフジ100では2018年に続いて二度目の優勝を果たした彼女に、レースの前後に話を聞きました。

「あの時、最後までプッシュしていたら」と富士山に再挑戦

コートニー・ドウォルターはアメリカ・ミネソタ州出身。学生時代から陸上競技やクロスカントリースキーの選手として活躍していました。コロラド州デンバーで教師をしていた2016年に初めての100マイルレースで優勝し、トレイルランニングでその才能を発揮するようになります。翌年にはサロモンのアスリートチームに加わって、24時間走の米国新記録や240マイルの超長距離トレイルレースで男女総合優勝を果たします。コートニーが2018年に富士山にやってきたのは、アメリカのウルトラランニング界でルーキーとして注目されていた時でした。

「2018年にこの大会を完走(注・23時間57分で優勝)して素晴らしい経験ができました。でも私にとっては本当にタフなレースでした。80マイル(約128km)地点で体力的にはレースは終わってしまっていて、あとは何とかフィニッシュまでサバイブすることしか考えられませんでした。」

「そういう苦しい思いをしたあとは『あの時、自分が最後までずっとプッシュし続けることができたらどんな結果が出せただろう』と、未知の可能性についていつも考えるんです。そして、もう一度あのレースに戻ってもう一度挑戦してみよう、過去の経験を生かしてもっといい結果を出してみたい、と思うんです。」

でも、過去のレースでの心残りだけが再び日本を訪ねた理由ではなかったようです。

「マウントフジは足はもちろん頭も使って走らなくてはいけない難しいレースです。夜の間ずっとハイペースで走り続けたと思ったら、今度は急な登りがやってきます。今年はうまくスケジュールに組み込むことができてよかった。」

「前回、ケビン(夫)は一緒に来ていません。彼にも富士山の素晴らしいトレイルや大会に集まる人たちとのふれあい、それに美味しい食べ物を経験してもらいたいと、ずっと考えていました。」

世界の名だたるトレイルランニング大会で勝利を重ねるようになってからも、日本はコートニーにとって再び自分の力を試し、文化に触れて、コミュニティと交流してみたい場所でした。

ライバル不在でも圧倒的な記録を残したコートニーが目標にしたこと

コートニー・ドウォルターは2018年に続いて今年のマウントフジ100で二度目の勝利を上げました。しかしその勝利は前回と比べると桁違いの内容です。スタート直後から女子のレースをリードし続けただけでなく、コースを進むにつれて前を走る男子選手を一人また一人と追い抜き続け、最後は男女を通じて3番目のフィニッシャーとなっていました。タイムは男子優勝選手に11分差まで迫る19時間21分。コースが多少異なるものの、前回の自身のタイムを4時間半も上回りました。

「100マイルのレースでは、必ず完走できるとは限りません。まずは、フィニッシュゲートまでたどり着けたのは幸運でした。その上で2018年に走った時と比べるなら、この6年間の経験を通じて100マイルを走る能力を向上させることができました。」
大会会場で話しかけられれば笑顔で応え、記念写真に応じる。レースを走っている間も、周りの選手やエイドのボランティアや応援の人たちの声に「アリガトウ」と日本語で返す。いつみても楽しそうに走る姿は2018年から変わりません。しかし、今回のフィニッシュの直後はしばらく誰とも話せず、暖かい夜にもかかわらず青ざ
めて寒さに震えていました。二度目の優勝は確実であっても、妥協することはなかったことがわかります。一体どんな思いで走っていたのでしょうか。

「全力を出し切ってこれ以上は何もできないという状態でフィニッシュする。どんなレースであってもそれが私の目標です。今回もその目標を実現できたと思います。」
「このコースは本当にタフで、登りと下りの繰り返しに加えて、それらをつなぐロードセクションも多いので、あらゆる筋肉が酷使されます。特に後半は登り下りがますます頻繁で急になり、そこをすっかり疲れた脚で臨むことになります。ゴールを考えずに目の前の一歩一歩に集中することを心がけました。」

過酷な場面こそ笑みがこぼれる

誰かと競争することよりも、自分がどこまでできるか試すことが大事。それは言うことは簡単ですが実践することは難しいことに違いありません。日々のトレーニングにコートニーの強さの秘密があるのではないか、との質問にはこう答えてくれました。
「私はコーチもいないし、トレーニングプランもありません。でも、自分の身体が週にどれだけのトレーニングをこなせるか、どのタイプのランニングが好きか、この数年間でわかってきました。毎日、自分の脳と脚の感覚をチェックして、そこから走る距離や強度を決めています。」自分自身と正直に向き合い、体調や感覚を尊重しながら適切なトレーニングを重ねていくのだといいます。強さの秘密を探ろうと質問を重ねるうちに、心と身体の関係について話してくれました。
「私はたとえ最も過酷な場面であっても、そこから喜びを感じることができると信じています。だから、最も辛い瞬間に微笑むことは私には自然なことです。」「100マイルのような長距離レースでは、肉体的な強さと同様に、精神面の強さが非常に重要になります。レース中は、ネガティブな考えにとらわれたり、ゴールまでの距離や脚の疲労を考えたりするのではなく、マントラ(心の支えとなる言葉)を唱えることで、脳を前向きで生産的な状態に保つようにしています。」単なる我慢ではなく、自らを厳しく律しながらも心と身体が発するサインを冷静に受け止めて判断する。レース中の困難な状況を積極的に受け止める。自分と向き合い対話する。こうした精神的な強さがコートニーを今日に導いたのでしょう。

成功を収めた今も、限界に挑戦し続ける

UTMBやウェスタン・ステイツだけでなく、世界の名だたる大会で成功を収めた今、コートニーは自分の目標を見失うことはないのでしょうか。そんな心配は無用なようです。
「人間が肉体的、精神的に何ができるのか興味があります。だからこそ、常に前に進み、新しいことにチャレンジし、不可能だと思えることを見つけ出すことができます。」コートニー・ドウォルターの本質は、明るい笑顔の裏側で自らの限界に挑み続ける強い精神力を持ち合わせていることにあります。そして記録や順位に囚われることなく、常に新しい挑戦を探っている。これからも彼女の歩みは、多くの人々に希望と勇気を与え、可能性への挑戦を後押ししてくれることでしょう。


コートニー・ドウォルターを支えるサロモンのトレイルランニング・アイテム

S/LAB GENESIS

S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。

S/LAB ULTRA 10

ウルトラランニングのための最高の性能基準をも上回るよう設計された S/LAB Ultra 10 は、身に着けていることを忘れてしまうほどの軽さと快適さが特長。François d’Haene にインスパイアされ、彼との共同開発により誕生したウルトラレース専用のこのベストは、Salomon 最軽量の製品。必需品や大容量ハイドレーションフラスクを収納できるアクセスしやすい収納ポケットを多数備えています。


Courtney・Dauwalter/コートニー・ドウォルター

プロフィール

競技 トレイルランニング

国籍 アメリカ

出身地 レッドビル

誕生日 1985年2月13日

サロモン契約 2017年より

鷲を追いかけた、長い夏休み 

「私には夢がある。それは、いつの日か ── 」

これは、誰もが一度は目にしたり耳にしたりしたことがあるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)の演説の一節です。 
そう、私には夢がある。それは、いつの日かWestern States Endurance Run(WSER)を走り、Grand Slam of Ultrarunningの称号を得るという夢である。 

トレイルランニングを始めたころに漠然と思い描いていた夢に挑戦する機会が、2023年に巡ってきたのです。WESRにエントリーし続けて、10年。エントリーチケットは、気がつけば256枚(はずれるたびに、チケットの枚数が、1枚が2枚、2枚が4枚と増えて、エントリーし続けると当選しやすくなるシステムになっています)。自分には縁がないのかもしれないと思えるくらい、チケットは途方もない枚数に膨れ上がっていました。 

が、ようやく、ようやく出走する権利を手にすることができました。ちなみに、2024年のロッテリーが12月のはじめにありましたが、256枚も持っているランナーは3人しかいませんでした。 

10年越しの夢 

なぜこれほどまでに、WSERを走りたいのか。それは、アメリカ最古の100マイルレースと言われていることが理由のひとつです。そして、最初に開催された年が、自分の生まれ年と同じ1977年であること。単なる偶然ですが、勝手に縁を感じてしまっているのです。 

Grand Slam of Ultrarunningは、このWSERを含め、Old Dominion、Vermont、Leadville、Wasatchという、アメリカの100マイルレースのなかで歴史のある5レースのうち4レースを完走すると得られるタイトルです。プロトレイルランナーの石川弘樹さんがもつ、鷲のトロフィーで知っているトレイルランナーの方も多いと思います。 自分はWSERを走り、かつ5レースすべてを完走して、Grand Slam of Ultrarunningのタイトルを獲得することを目標において走ることを決めていました。 

100マイルレースを5本走るということだけでもそれなりの覚悟がいりますが、このグランドスラムは6月から10月の3.5カ月間で5本の100マイルレースを走らなければなりません。レースの間隔は長くて3週間、だいたいが2週間程度しかない過酷な挑戦です。 

加えて、日本に住む自分にとっては、その都度、渡米しなければなりません。体力的にはもちろん、経済的にもなかなかハードな挑戦でもあります。自分としては、100マイルを5本ではなく、3.5カ月間をひとつのレースと捉えて走るマインドで臨むことを決めました。 

スタートラインに立つ 

このグランドスラムを走るにあたって最初の懸念が、リカバリーでした。1月にHK4TUC、3月にBarkley Marathonsを走って酷使した身体を、4〜5月の約2カ月でどこまで状態を戻せるのか。途中、彩の国のペーサーや自分が運営する100マイルチャレンジ「T.D.T.」などもあり、じっくり身体を休めることは難しい状況でした。グランドスラムのスタートのレースは、T.D.T.の2週間後に開催されるOld Dominionです。

アメリカ東部バージニア州で行われる歴史ある100mileレースです。WSERに次いで2番目に古いと言われている100mileレースですが、WSERが山火事などで中止になっていることがあるので、実は開催回数は最も多いレースなのです。 

ここでは、Barkley Marathonsを走るようになるまで、毎年のように参加していたハワイの100マイルレース「H.U.R.T100」で知り合ったアレックスの家を拠点にし、レースに臨むことができました。コースはほとんどが林道とロードですが、時折、アメリカの懐かしい「ザ・田舎」といえる農家の裏庭や牧場を通り抜けていきます。コースの雰囲気は抜群です。 

 

グランドスラムに挑戦するにあたり、グランドスラマーになるだけではなく、4レースでサブ80、5レースでサブ100を目標に定めていました。その目標達成のために、Old Dominionはサブ18をめざして走ります。 

しかし、フタを開けてみると、ここまでのタイトなスケジュールが響いたのか、時差ボケからか途中で眠くなって、ペースダウンしてしまい、カフェインピルを飲んでどうにか乗り切り、18時間52分で2位でフィニッシュ。結果とは裏腹に、かなり暑い気候もあって、途中で固形物を受け付けなくなり、ジェルだけで凌いだり、歩きを積極的に入れて涼しくなってから勝負を仕掛けたりする辛抱のレース展開でした。 

ただ、とにかくグランドスラムのスタートが切れたこと、苦しいなりにまずまずのタイムでフィニッシュできたことを、次のレースWSERに繋げていくことに頭を切り替えます。そう、次は夢にまで見たWSERなのだから。 

WSERを走る 

10年越しの願いを叶える時が、ようやく訪れました。WSERでは、 “アメリカの父” ことクニさんに、お世話になり、クニさんのホームトレイル「Cardiac Trail」を走ったり、レース序盤の雪が残っているエリア(今年は残雪が多かった)をチェックしたりして、リラックスしながら時差や気候に身体を慣らしていきました。 

これまで走ってきた100mile、これから走るであろう100mileのどれもが思い入れ深いレースやチャレンジになることは間違いないですが、そのなかでもWSERは、僕の夢であるBarkley Marathonsと並んで特別な存在です。 

10年待ち望んだレースは、10mile進んだら「あ〜、あと90mileしか走れない」と思うくらい、ずっと続いていてほしいと感じていました。目の前に広がる光景は、繰り返し観たドキュメンタリー『Unbreakable: The Western States 100』の世界そのもの。ここはあのシーンの、ここは……と思いながら走っていました。 

今年は、レースの象徴的ポイントのひとつNo Hands Brigdeにエイドがなかったのが残念ですが、20時間19分59秒は夢心地でした。スタートからしばらく続く残雪エリアが思うように進めなかったので、目標としていたサブ18には及びませんでしたが、充分に力を出し切ることができたと思います。

それはレース後半を素晴らしいペーシングで導いてくれたペーサーのブランドンのおかげでもあります。トレイルを走るランナー同士、初めて会ったとは思えないくらい波長が合って、またいつか一緒にトレイルを走りたいと思える仲間がまた一人増えました。そして、新しいランナー仲間を繋いでくれたマリコさんにも感謝しかない。 

ハリケーン襲来 

ウルトラランニングをやっていると、ほぼ100%思い描いた通りになることはありません。大なり小なりのトラブルはつきもので、それをどのように乗り越え、ゴールに辿り着けるかを楽しむ競技だと思います。そういう意味では、3戦目のレースであるVermont100は自分にとって試練となるレースだったのだと思います。 

それは、渡米2日目のことでした。Vermont100の開催地にハリケーンが直撃し、レースがキャンセルになってしまったのです。 

ちょうど自分は、Barkley Marathonsでいつもサポートをしてもらっているアナトーリの家のテレビで映像を見ていて、被害は甚大でレースどころではないのは、映像からも見て取れました。ただ、これでグランドスラムを完全制覇する夢は終わってしまうのか……とショックを受けていました。 

ただ同時に、過去にも似たようなことがあり、2つのレースが代替レースに認められていたことを思い出し、気がついたらウルトラサインアップで滞在中に参加できる100マイルレースを探していました。 
エントリーできそうなレースはひとつだけ。Devil’s Gulch。さっそくレースディレクターに参加させてほしいとメールをすると、快く受け入れてくれました。 

アナトーリは、まだLeadvilleとWasatchが残っているから少しでも体力を温存したほうがいいとアドバイスしてくれました。確かにそれが賢明な選択
択かもしれない。もちろん、ハリケーンの被害は空港にも及んでいて、そのレースの場所まで飛行機が飛ぶのかさえ不確かな状況でした。 

「自分は何がしたいのか」。ずっと自問自答を繰り返しました。 

その答えは、Devil’s Gulchを走るということでした。自分の決断に呆れるアナトーリに空港に向かってもらいました。途中のガソリンスタンドも停電しているような状況で、空港へ移動中のクルマの中から航空会社への電話も繋がらない。 

空港で待ち続けると、ハリケーンがどこかへ行き、4時間遅れで飛行機が飛んだのです。もしあのとき電話がつながってフライトをキャンセルしていたら、どこかで引っ掛かりを残したまま、グランドスラムを達成したことになっていたのかもしれません。 

レースは23:54:44で1位フィニッシュというおまけつき(完走者は3人でした)。のちにグランドスラムのレースとして、無事に認定されました。

試練のLeadville 

第4戦の開催地Leadvilleという村は、標高3120mあたりにあります。富士山でいうと「太郎坊」くらいから走り始めるイメージです。トレイルランニングは、日本もそうですが、宿の数が限られているので、その確保は一筋縄ではいきません。とくにLeadvilleは、出走者が800人とアメリカのウルトラのレースでも最大規模のレースで、会場から遠い場所でないと宿が空いていない状況でした。 

「オレの部屋に泊まれよ」。そう声をかけてくれたのは、Old Dominionのゴール地点で知り合ったジャレッドでした。Old Dominionの会場でグランドスラムの話をしていると、宿がないなら一緒に泊まろうと声をかけてくれたのです。彼には、空港まで迎えに来てもらったり、ペーサーを務めてくれたネイトを紹介してくれたり、さまざまな面でサポートをしてもらいました。 

ネイトとは初対面でしたが、初めて会ったとは思えないほど共鳴するところが多かったのは、同じウルトラランナーということもあるのでしょう。レース当日は、彼のお子さんの誕生日でしたが、日本からぼくが来ること、そしてグランドスラムをサポートすることを伝えたら、快く送り出してもらったと話してくれました。 

Leadvilleでは、慣れない高地でのレースに苦しめられ、前半に潰れてしまう有様。でも、距離の長いウルトラに浮き沈みはつきものです。進み続けていると状況は変わります。後半はどうにか持ち直し、サブ24(23:31:18)でフィニッシュ。目標としていたサブ20には及びませんでしたが、最終的な目標はグランドスラム達成と全レースでサブ24。結果としては充分です。

ファイナルアンサー 

いよいよ最終レースのWasatch。グランドスラムは5レース中4レース走ればいいのですが、必ずWasatchを入れなければならないので、このレースに失敗するとすべてがダメになるということ。開幕戦のOld Dominionでも、憧れのWSERでも感じることがなかった緊張感に包まれていました。 

Wasatchは、これまで挑戦した日本人のランナーの誰一人としてサブ24を達成していない。それだけ難しいレースでもあります。今回のグランドスラムで自分がターゲットにしていた4レースでサブ80、5レースでサブ100の達成は現実的ではないが、グランドスラムのすべてのレースでサブ24を達成することをめざしました。 

恐らく自分の周りの多くの人が、短期間で4本の100マイルを走ってきていて、サブ24は難しいのではないかと思っているだろうし、自分自身もグランドスラム達成のために、セーフティーに完走するという選択肢が残されている。それでも、サブ24を狙うことを選択しました。 

Wasatchでは高地順応するために早めに渡米し、コースの2回ほど試走し、身体を慣らしていきました。1週間ほど滞在することで、Leadvilleのときの高地順応が余韻として残っているのか、Leadvilleに訪れた当初のときのような高地特有の苦しさは感じませんでした。もしLeadvilleでの高地順応がなければ、Wasatchではこんなにもスムーズに高地順応ができなかったと思います。 

レースは、途中でタイムテーブルから遅れ始めた。「自分には無理なのか」と疑う瞬間もありましたが、こういう時に活きるのが経験です。自分は誰よりも100マイルを走ってきている。そう信じて抑えにいくと、脚が動きはじめ、140km地点でようやくグランドスラムとサブ24の達成を確信することができました。 

もちろん、それは自分だけの力ではありません。H.U.R.T.で知り合って以来の友人であるイアンが、レースを通してサポートしてくれたり、Tomo’s Pitのクライアントであるベンジャミンがペーサーをするためにわざわざスイスから来てくれたり、それ以外にも家族や日本の友人たちのサポートがあってこそのこと。 

グランドスラムを終えて、つくづく思うのはトレイルを走り続けていなければ出会うことがなかった友人たちがいてくれたからこそ、自分は走り切れたということです。 

でも、自分の夢はこれで終わりではありません。「夢の墓場」であるBarkley Marathonsのフィニッシャーになること。キング牧師を殺害した凶悪犯の脱獄劇から生まれた“悪魔のレース”の5度目の法螺貝は、すでに鳴っているのです。 

Result〉 

Old Dominion 18:52:27 2nd overall 

Western States 20:19:58 39th overall 

Vermont Cancelled 
Devil’s Gulch: 23:54:44 1st overall 

Leadville 23:31:18 39th overall 

Wasatch 23:17:17 6th overall 

Best 4 x 100 times: 86:01:01 19th/406 finishers since 1986 

グランドスラムで活躍したSalomonギア 

今回のグランドスラムは、Barkley Marathonsでも使った、超⻑距離を⾛り切れるクッショニングを備えている「S/LAB GENESIS」一択。また、22年のバックヤードウルトラ以来、愛⽤しているソックス「S/LAB NSO VERSATILITY」は、程よいコンプレッションがランニング中もリカバリー中も手放せない(脚話せない)ギアです。6月から10月にかけて開催されるグランドスラムは暑さ対策も重要です。S/LAB SPEED BOBもマストなギアでした。 


FOCUSED ITEM

S/LAB GENESIS

S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。

S/LAB ULTRA KNEE

※S/LAB NSO VERSATILITYに近しいモデルを紹介しております。
ウルトラディスタンスのために開発された S/LAB ULTRA KNEE は、トリガーポイント(〇部分)に Resistex® Bioceramic ファイバーを使用することで微小循環系の働きを高め、エネルギーリターンを向上。軽いコンプレッションで筋肉をサポートし、速乾性に優れた配合で履き心地も快適です。長時間着用しても気にならない、程よい着圧のソックスです。

S/LAB SPEED BOB

トップアスリートからのフィードバックをもとに、S/LAB SPEED BOB の保護機能を高めました。より幅広く、形や角度も変えられるようになった縁は、適度に調節可能です。ホワイトカラーのメッシュ素材はとても軽く通気性抜群。アイスキューブを入れるスペースも充分です。炎天下でも太陽光線から頭部をしっかり保護してくれます。


井原 知一/TOMOKAZU IHARA

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株式会社TOMO’S PIT代表Facebook / Instagram
※オンラインコーチング

Podcast / 100miles100times

2007年当時、身長178cm・体重98kgの肥満体系であったが、ダイエット企画の社員サンプラーとなり毎日30分トレッドミルを走り続けた結果、3ヶ月で7kgの減量に成功。それ以来、走ることがライフスタイルとなりトレイルランニングと出会う。夢は、100マイルを100本完走するとともに走る楽しさを広げていくこと(2022年12月時点で100マイルを64本完走)。

もっと山を知りたい

2023年8月1日から丸々1ヶ月、フランスのシャモニーとスイスのツェルマットに遠征というか旅というか….に行ってきました!この旅を計画したのはちょうど1年前。目標レースに向けてトレーニングをしては故障を繰り返してという時期でした。DNSが続くうちにレースに対してのモチベーションもなくなっていき、モヤモヤが大きくなっていました。その正体はレースと山遊びのバランスをどう取るのかという葛藤でした。

バラエティーに富んだ高山に魅了されて白馬に移り住んできたのにレースに向けたトレーニングとなるとロード、峠走、知り尽くしたルートでのタイムアタックなどばかり。山の経験値が上がっていかないことにもどかしさを感じていました。しかし、好きなように山遊びしてるだけではもちろんレースで勝てないこともわかっています。そこで2023年の計画をこのように立てました。

1. 富士登山競走までは山遊びは我慢して1番効率の良い練習に集中する。

2. 8月は1ヶ月ヨーロッパで好きなだけ山を登る。

富士登山競争の結果は9位となんとかトップ10には入れたものの自分としては悔しさが残るレースとなりました。また来年リベンジします。それはそうと、ついに待ちに待った夏休み。僕が現在働いている白馬インターナショナルスクールの夏休み期間を利用して旅に出ることができました。

マイハウス

1年ぶりのシャモニー

まずはUTMBでお馴染みの街シャモニーに到着。昨年はMarathon du Mont-Blanc(モンブランマラソン)に出場するためにきましたが今回の目的はヨーロッパアルプス最高峰のMont Blanc(モンブラン)登頂です。標高は4,808m(以前は4,810mだったが温暖化の影響で徐々に低くなっているそう)。フランス側からMont Blancに登るルートは主に2つあります。1つはシャモニーの街から巨大ゴンドラでエギーユ・デュ・ミディ展望台にいき、そこから三山を縦走していくルート。もう1つは隣町のレズーシュからひたすら登り続けてグーテ小屋を経由するルート。自分は比較的、難易度が低いと言われているグーテルートで登りました。一般ルートと言われているものの激しい天候の変化、落石、クレバス、ナイフリッジなどのリスクがあり決して簡単なルートではありません。特に近年は温暖化の影響も受けて落石のリスクが高まっているので事前の情報収集を入念に行いました。

1回目のチャレンジは強風で撤退

8月4日深夜。シャモニーからレズーシュに向かう最終バスに乗りました。天気は大雨。ただ予報では4,000m〜山頂付近は朝にかけて晴れて風も弱まる予報。そのタイミングを狙って日付の変わるころに麓の街をスタートしました。今回はキャンプサイトで出会った日本人と一緒にスタート。1人だったら雨のナイトハイクは心細かっただろうなと思うと出会いに感謝です。

ナイトハイクスタート

5時間かけて1つ目のポイントであるテートルース小屋に到着。ここからは標高差600mほどの岩と雪のミックスをよじ登ります。そしてグーテルート上で一番危険と言われる箇所、グラン・クーロワール、別名「死の回廊」を通過します。ゴロゴロと落石が絶えない斜面をトラバースするポイントなのですが、幸いにもここ数日は気温が低かったのと前日の雪もあり比較的落ち着いている状況でした。

グランクーロワールを通過
グーテ小屋までの登り
振り返るとテートルース小屋がはるか下に

グーテ小屋まで到達すると景色が一変。一面の真っ白の大斜面を風がゴーゴーと音を立てて吹き荒れていました。その斜面の遠くに小さく登っている人の姿が見えます。先行者のトレースを辿って無心で登りました。1つ目の大斜面をクリアするとついにラスボスが登場。ここまで登ってきてようやく山頂を目にすることができます。標高4,350m付近に最後の避難小屋があり、その先はリッジをひたすらに直登して山頂に到達します。が、避難小屋に着いたあたりで爆風に見舞われ一旦小屋に避難します。中にはイタリア人パーティが何組かおり、みんな風が弱まるのを待っているようでした。30分ほど待機したものの風は収まる気配もなく他のパーティもみんな下山するというので自分もここで引き返す決断をしました。残念ですが時間は十分にあるので焦っても仕方なし。あまり気落ちすることもなく次のチャレンジに向けてまた天気予報と睨めっこを開始しました。

天気は良いが実は爆風

2回目のチャレンジで登頂

撤退から2日後、天気予報が最高のコンディションになると言うので再度アタック。前回の経験からいらない物を減らしてさらに軽量化。よりスピード重視で挑戦しました。避難小屋までは問題なく良いペースで登れたので割愛します。 朝日が登ってきて快晴かと思ったらすぐに怪しい雲が立ち込めてきました。風も徐々に強くなりまるでディメンターが出てきそうな雰囲気です。早く山頂に立って帰ってこようとペースを上げてガツガツ登りました。

山頂まで400mUP

さすがに4,000m後半は苦しさを感じましたがピッケルとアイゼンを交互に雪に刺す感覚が気持ちよく淡々と登ることができました。1時間ほどでついに山頂に到着。これまでの道のりに比べると意外にも山頂はのっぺりとしており、なおかつ視界が悪かったため本当に頂上なのか不安でした。手元のSUUNTOウォッチで標高を確認して登頂を確信。数枚だけ写真をとってすぐに下山を開始しました。強風とホワイトアウトで登頂の余韻に浸る暇はまったくありませんでした。

ついにMont Blanc登頂

避難小屋まで来るとほっと一息。中で補給食を食べながら気づいたら10分ほど寝ていました。しかしここからの下山もまだ気が抜けません。視界不良で見誤ってクレバスに落ちてしまわないようにGPS機能を利用して自分が通ってきた道を正確に辿りました。その後はガンガンに走って下りお昼過ぎにシャモニーに帰還。今日は贅沢にモンブランビール飲んでいいでしょ!街のベンチからビール片手にさっきまでいたモンブランを眺めて余韻に浸りました。

オートルートはスキップ

Mont Blanc登頂後、当初の計画ではシャモニーとツェルマットをつなぐオートルートという180kmのロングトレイルを歩いて移動する予定でした。オートルートでいちばん楽しみにしていたのが雄大な景色の中で星空を見ながらテントで寝ることでした。しかし、ルート上でのワイルドキャンプが今年から禁止になっていたのです。理由はオーバーツーリズム解消のため。そこで山小屋を予約しないといけなくなったのですが当然すでにどこも満室。そもそもこれまで節約を心がけていたのに山小屋に何泊もするのは気が引けたので仕方なくオートルートは諦めて鉄道で一気に移動することにしました。

世界一のバーティカルコース

途中、マルティニーという街で1泊し世界一斜度がきついバーティカルコースにチャレンジしました。歴代の名だたるトレイルランナーや山岳スキーの選手が記録を塗り替えてきたコースで言わばバーティカルの聖地です。距離2.0kmで標高差1,000m とまさに壁のようなコース。果たしてどんなサーフェスかと思って行ったらまさかの無限階段地獄でした。ぶどう畑の中を真っ直ぐ天に向かって突っきるトロッコ線路。一目でわかりました…これはキツイやつだ。モンブラン登山の翌日だったので身体は疲れていましたがせっかくの機会なので鞭打ってタイムアタックしました。5分前にスタートした地元の高校生2人を何とかゴール手前で抜かしましたが歴代のトップ選手達との差をまじまじと感じさせられました。登りをもっと強化して挑戦しにいきたいです。それにしてもこんな鬼コースで日常的にトレーニングしている高校生…恐るべし。

 Fully VK

ツェルマットに到着するも…

8月11日、ツェルマットに到着。駅のすぐ近くにキャンプサイトがあったのでそこでテントを張りました。夜になると体が急にだるくなり高熱にうなされて翌朝を迎えました。翌日も1日中、熱とだるさで動けずテントで寝るばかり。日が出るとテントの中はサウナ状態になるので何とか這いつくばるようにテントから出て木の陰でぐったりしていました。幸いにも熱は2日で収まったもののその後1週間以上、倦怠感と極度の体力低下で山にも行けずトレーニングもろくにできずともどかしい時期を過ごしました。症状的におそらくコロナだったのだと思います。

Matterhorn Ultraks

高熱後の後遺症に悩まされながらも徐々に体力は回復し、旅も終盤を迎えることになります。旅の締めくくりはツェルマットで開催されるMatterhorn Ultraks(マッターホルンウルトラクス)。マッターホルンを横目に美しいトレイルを走り抜けるスイスアルプスならではの大会です。いくつかカテゴリーがありますが僕が出場したのはEXTREME。このカテゴリーはスカイランニングのワールドシリーズの1戦に指定されており、年間13あるシリーズの中でもトップクラスでテクニカルなコースとして知られています。距離は25km、累積標高差は2,850mと激しいアップダウンが特徴のレースです。特に下りは走るというより岩とともに滑り落ちるという表現が正しいかもしれません。登山道ではないところにレース時だけロープが張られガレガレの岩場を下ります。ダウンヒルは自信がありますが試走してみて久しぶりにビビりました。

日本から来た2人と合流して試走

トップ10まであと一歩

朝8時にレーススタート。いきなり標高差1,600mをひたすら登ります。まだ体調が完全に回復していなかったのかスタート直後はかなり息苦しかったです。斜度的に4km地点までは走れると計算していたのですが、早々に息が上がってしまいパワーハイクに切り替えることに。1つ目の登りが終わるあたりでパッとうしろを振り向くと女子トップの選手がすぐうしろまで迫って来ており、かなり焦りました。そして試走でビビりまくった激下りゾーンに突入。ロープを掴んだり、転んで手をついたときのためにグローブをつけようと思っていましたが前の選手との差を数秒でも縮めるためそのままドロップイン。後傾にならないこと、10m先の足場をしっかり見ることを意識して全集中で下りました。この下りでアドレナリンが大量放出されたのかここからエンジン全開。標高は3,000mを超えていますが苦しさを感じないどころか、むしろ気持ち良くなってきました。

2登目でガンガン走ることができ、数人を抜いてエイドステーションに到着。気候のおかげもあり脱水もガス欠もなし。その後、4kmほどガレ場をトラバースするエリアが思ったより手こずりました。顔をあげて100m先にある次のマーキングを確認しつつも足元の尖った岩をピョンピョンと飛んでいかないといけません。そしてここも登山道ではないためマーキングはついてるもののほぼフリールート。直線的に進むのか安定した足場を見つけて迂回していくのか判断力が問われます。海外選手のサーフェスに対する対応力の高さを見せつけられました。一歩外したら脛を強打か顔面をぶつけるんじゃないかと思うようなところをピョンピョン飛んでいくのです。ここでまた順位を2つ落としてしまったもののその後の3回目の登りとゴールまでの標高差1,700mの長い下りでまた順位を上げ、3時間47分の総合12位でゴールしました。トップ10まであと7分…次こそは!

 マッターホルンをバックに

夢のような1か月

1ヶ月もの間、自分の本当に好きなことだけに没頭できる毎日は夢のようでした。また、日本での普段の生活がどれだけ快適なものか実感することができました。ふかふかのベット、お風呂、ご飯、車や電車などの交通網、あげたらキリがありませんが、とにかく文明の力にあっぱれです。一方で色々と足りない生活というのもまた幸せだったなと振り返っています。日の出とともに起きて山を走り、ちっちゃいナイフとバーナーで自炊して、洗濯は全て手洗い、日中は外でじっくりストレッチ。できることが限られる分、自然と自分の身体を労わる時間が増えました。おかげでこれだけ走ったり登山したのにも関わらず故障なしで帰ってくることができました。このフレッシュな気持ちを忘れず、引き続き山遊びとトレーニングに全力投球していきたいと思います。さあ来年はどこに行こうかな。

最高のロケーション

上正原 真人 / Masato Kamishohara

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・Salomonアスリート

年齢:26歳
出身:群馬
居住:長野県白馬村

スカイランニング現日本代表。
大学卒業後、雄大な後立山連峰に惹かれて長野県白馬村に移住しました。
夏山、冬山、縦走登山、山岳スキーなど一年を通して山でトレーニングをしています。中でも麓から山頂までの最速タイムを狙うFKT(Fastest Known Time)が自分にとって一番魅力的なスタイルです(白馬岳最速記録保持)。
職場の白馬インターナショナルスクールでは生徒と登山やランニングを行いつつ、夏休みなどを利用して海外レースにも挑戦しています。また2021年に立ち上げたジュニアトレランチーム Mountain Addictsでは小中高生を中心に次世代の育成にも注力しています。

トレイルランニングの原点であり頂点

                                
Ultra Trail Du Montblanc(以下UTMB)という大会は、世界で最もメジャーなトレイルランニングレースである。大会名にモンブランという名を冠するだけあり、フランス・イタリア・スイスの三か国にまたがるモンブランを山伝いに一周(171キロ)するものである。モンブラン最高峰へ登る訳ではないが、それでも累積獲得標高は10,000mを超える。世界屈指の美しい風景と過酷さを併せ持つトレイルランナー憧れの舞台である。

そんなUTMBも2023年開催にて20回目を迎える。今大会からUTMB関連レースのファイナルという位置付けになり、歴代で最も出場者のレベルが高いものとなった。UTMBに出場するためには、UTMB関連レースにてストーンを獲得(現時点では国内には関連レースが存在せず、最低1戦でも海外関連レースに出場し、完走する必要がある)し、抽選で見事当選する事が一般的な出場方法である。他の出場方法としては、その関連レースにて成績上位ならば、無抽選で出場権が与えられる制度があり、私においては、2022年タイで開催されたドイインタノンbyUTMBという大会にて、年代別ランキング上位にて抽選を経ないダイレクトエントリーが可能となり、晴れて2023年のUTMBの出場権を得たのである。

トレイルランニングを始める前から、UTMBというものをTVで目にして以来、こんな競技があって、こんな美しくも過酷な世界がある事を知り、その映像から受けた印象を心の奥底に閉まっていた。今から思えば、導かれるようにトレイルランニングを始める事になり、その時受けた感情は眠り続けていたが、競技を続けていく内に実績も伴い、トレイルランニングにまつわる人間関係も構築され、気が付けばタイのドイインタノンを走っていた。その結果、TVでUTMBを目にして10年は経過していたが、UTMBの舞台に立つことが決定した。トレイルランニングを始める前、あの時何気なくTVを見ていると、たまたま目にしたUTMBが、現実のものになるとは人生は何がきっかけになるか、分からないものである。トレイルランニングをしているならば、いつかはUTMB。心の奥底に閉まっていた感情がいよいよ現実になると、否が応でもワクワクするものであるし、絶対に結果を出してやろうという気持ちになるものである。

初ヨーロッパへの旅立ち


今回の旅路は、関空からソウル・仁川空港とドーハ・ハマド空港の2つの空港を経由し、UTMB開催地であるシャモニーの最寄り空港であるジュネーブ・コアントラン空港に向かうフライトスケジュールとなっている。

8月28日(月)19時40分関西国際空港発チェジュ航空にてソウル・仁川空港へまず向かう。関空のチェジュ航空カウンターにて搭乗手続きを行う。機内預け荷物に関して、仁川空港にて一度ピックアップして、乗り継ぎの際に、再度機内預け入れが必要だが、チェジュ航空からカタール航空は提携しているため、載せ替えておきますと言っていただく。それならばお願いしますと返答する。今思えばこの一言がトラブルの始まりだった。

2時間ほどで仁川空港到着。一度韓国に入国手続きとなり、3時間ほどの乗り継ぎ待ち時間を過ごす。続く経由地のドーハ・ハマド空港へ向かうための搭乗手続きを終え、カタール航空に乗り込む。ソウルからドーハへは7時間ほどの搭乗時間。深夜便になるため、睡眠をとって、翌朝ドーハに到着する。ドーハ・ハマド空港はまさにアラブの空港という感じで空港自体が諸々ゴージャスであった。ここでも3時間ほどの乗り継ぎ待ち。そしてドーハからジュネーブ・コアントラン空港へ6時間ほどの空旅。移動には合計約21時間かけて、8月29日14時20分に予定通り、ジュネーブに到着した。

トラブル発生

ジュネーブ・コアントラン空港にてトラブル発生。関空から預けていた機内荷物をピックアップする際、少々心配していた嫌な予感が的中する。荷物到着コンベアから自分の荷物が待てども一向に出てこない。同じ便でジュネーブ到着した周囲の人々は一人また一人と自分の荷物をピックアップして去っていく。そして最後の一人になり、完全にベルトコンベアが止まった。ロストバゲージである。空港からシャモニーまでの現地バスを15時30分の便で予約していたが、現在15時30分。荷物がない状態ではバスに乗れない。頭が真っ白になる。現地の知人に連絡し、航空会社の荷物トラブルカウンターで相談して下さいと言われ、カタール航空のカウンターへ向かう。英語もまともに話せない状態で相談できるだろうかと不安になる。スタッフの方の話に必死で食らいつき、身振り手振りの英語(というか英単語)で返答する。それでも通じ合えない場合は、翻訳ソフトを使用してもらい、コミュニ―ケーションを取る。こういう場面ではとても便利な世の中になっている。その結果、荷物の存在は確認しているが、どこに今あるかが不明だとの事。もし、ドーハにあれば、翌日に届くが、ソウルにあれば数日かかる可能性があると。前者である事を切に願う。最悪の事態も想定して、大会参加の必携品は手荷物で運ぶべきだった。もし、レースまでに荷物が届かなければ、各アイテムを考えないといけない。途方に暮れたまま、バスカウンターに向かい、事情を説明し、バス便を振り替えてもらい、バスにてシャモニーへ向かった。

身体1つでシャモニー到着

当初の予定ではシャモニー到着は17時頃だったが、前述のトラブルにより、21時の到着となってしまった。初めてのヨーロッパ、うまくいかないものだ。シャモニー到着したのは良いものの、荷物が無いことで着替えやコンタクト・歯ブラシ等の生活用品や自炊のための食料(現地では物価が高いため)も全く手元になかった。標高1,000m以上あるシャモニーの夜は8月末でも冷える。長袖を着ていてもとても肌寒いと感じた。長旅による疲れもあるが、部屋に到着してすぐシャワーがしたいと思い、シャワールームへ向かうものの、一般的なホテルではなく、アパートタイプの宿泊先のため、アメニティが全く無かった。もちろんシャンプー類も用意していたが、機内預け荷物に入れたため、早速不便を感じる事となった。ロストバゲージを相談した現地の知人の方に、同じ宿泊先の日本人の方に事情を伝えているので声をかけてみてくださいと案内していただき、初対面でシャンプーをお借りした。また非常に空腹だったため、レトルトのカレーをいただいた。到着早々、大変お世話になった。

翌朝の8月30日、荷物が届かない事で最低限必要になる身の回り品とパン等の食料を揃えるためスーパーに向かった。やはり現地では物価が高い。これから買う物は全部荷物に一式用意してある事を考えると、悔しい思いを持つ(後日、海外旅行保険の損失補償の対象となるものもあります)。現地での最低限の生活用品は購入するとして、問題はレース参加のための必携競技アイテムをどうするか。途方に暮れたまま、土地勘もなく不慣れなシャモニーの街を一人歩いていた。

救世主現る

UTMBウィークという事でシャモニーの街全体が賑わっていた。その賑わいの反面、途方に暮れたメガネ姿の男が肩を落として一人向かう先もなく歩いていると、街中に知っている顔があった。同じUTMBに出場する吉村健佑選手である(レースでは日本人トップでゴールされた方)。吉村選手とは、2022年末タイのドイインタノンにて食事の際、同じテーブルでお話をさせてもらって以来、SNSを通じて交流があった。吉村選手に事情を伝え、「板垣さんが僕より先にゴールしないように航空会社に手配して、トラブルを仕込んでおいたのですよ」と、とてもユーモア溢れる冗談を言っていただいたおかげと、初めての土地で知っている日本人の知人に会えた事で、沈んでいた気持ちも持ち直す事ができた。吉村選手はさらに、「予備のアイテムが複数あるので良ければお貸しできますよ」と。天からのお告げにも聞こえた。藁にもすがりたい立場としては、これ以上ない有難さであった。吉村選手の滞在先にて、お貸しいただけるアイテム(レインウェア・テーピング・フラスク等々)を貸していただき、レース出場の目途が半分以上立った。シャモニー到着翌日の段階で不足するアイテムは、ウェア・シューズ・ザック・ポール・補給食関係となった。

再び救世主現る

レース前日である8月31日の朝。この時点でもまだ荷物は届かない。前日は吉村選手と会う事ができて、またUTMBで賑わうシャモニーの街を散策できて、有意義な一日となった。この日はエギーユ・デュ・ミディ(以下ミディ)というシャモニーで有名な観光スポットに行きたいと思っていた。ミディにはケーブルカーに乗って標高3,800mに上がってモンブランをはじめとする雪渓が美しい山々の風景が見たかった。しかしながらシャモニーの街でも朝晩は薄い長袖一枚では肌寒いのに、3,800mでは凍えてしまうため、半ばミディ観光を諦めていたが、そこで再びの救世主が。日本からの知人女性の方だった。この方はUTMBに先行して開催されたTDSの完走者である。自身のレースが終わって、しばらくシャモニーに滞在されていたので、私の事情を知り、連絡をいただいた。ミディ観光に行きたいならば、ダウンを貸していただけるとの事で、吉村選手に続き、こちらでもお言葉に甘えさせていただく事に。

標高3,800mミディでは凍えるような世界だったが、雪渓に覆われた急峻な山岳地帯が見事な美しさを表現していた。見る人を感動させる絶景が広がっていたため、心から行って良かったと思える観光地であった。ダウンをお借りできた事が、ミディ観光を含め、朝晩のシャモニーをこの後過ごす上で、大変助かる事になった。この方からは、他にも補給食等(自分で用意していたレース中の補給食も全て荷物に入れていた)をお借しいただき、吉村選手に続き、この旅において大変有難く、心から感謝をお伝えしたい。

三度救世主現る

ミディ観光を終え、満足感に浸りながらシャモニーの街を練り歩く。レースのスタートの目途も立ちつつあり、到着して以後、心から楽しめなかったシャモニーの街も違う景色に映るようになっていた。シャモニーの街を挟むように急峻な山々がそびえ立つ風景がとても美しく、自然と調和の取れた建物が並ぶ街、UTMBで賑わう雰囲気、現地の方含め心暖かい人々の存在でいつの間にかシャモニーの虜になっていた。

そんな事を感じながら、また一人知人の日本人の方にバッタリ出会う。その方はタイ・ドイインタノンに行った際の旅行会社関係の方であった。UTMBを走る事を伝えた上で、今回のトラブルの件を話すと、ポールはお貸しできると思いますと、三たび有難い一言をいただいた。そしてN&Wカーブというイタリア製のポールを貸していただいた。さらに、予備があるとの事でSalomon製のザックまで貸していただける事になった。ザックに関しては、普段から使用しているSalomon製がとても良かったので、大変有難かった。ドイインタノンの際にもお世話になり、今回もお世話になる形で、この方にも頭が上がらない。

待ち望んだ朗報

レース前日の夜も更けてきて、いよいよ明日9月1日はレースである。この時点でまだ荷物が手元に届いておらず、ウェアとシューズは現地ショップにて購入する判断を迫られていた。夕食を食べながら、携帯が鳴った。荷物が空港に届き、これから宿泊先に届けますと。この事件を機にたくさんの方に迷惑をかけてしまった。そして知人の方々の有難さを身に染みて感じていた自分にも朗報であった。ギリギリではあるが、レースに間に合った。お借りしていた必携アイテムも大変ありがたく、感謝しかないものだが、自分が普段から身に着けているアイテムには代え難い。コンタクトも手元に届き、レース前日にして準備は万全になった。

緊張感と高揚感(UTMBスタート)

9月1日のレース当日。スタート時刻は18時。いざスタートして、走り始めて2時間ほどで早くもナイトパートに突入するため、当日の18時までの過ごし方は重要である。

起床時間は午前7時。普段とおり朝食を摂り、改めてコースマップと睨めっこをして、楽にして過ごす。午後0時、昼食を摂り、夕刻に備えて横になって仮眠を取ろうとしても、緊張からか寝つけない。眠れるか眠れないかが重要でなく、睡眠体制を取る事で体が休めていると受験勉強の時に聞いたので、眠れなくても焦ることはしない。私の経験上、大会前日で全く眠れなくても、ベストパフォーマンスを発揮し、優勝できたことがあるため、仮に睡眠が取れなくても不安になる事はしない。

18時が迫る。滞在先の宿からスタート地点までは徒歩で10分程度なので、16時過ぎにスタート地点に向かった。ドロップバックを預けて、スタート地点に向かうとスタート1時間前であるが、既に大勢のランナーがスタートブロック入りしていた。私は幸いにも、158番のゼッケンであるため、100~299番までのELITE2というスタートブロックであり、比較的余裕を持って整列できた。ここで、日本人ランナーで面識のある吉村健佑選手・万場大選手と合流した。

いよいよスタート。「CONQUEST OF PARADISE」というUTMBを象徴する曲が流れ、緊張感と高揚感が押し寄せる。各国から選りすぐりの強豪ランナーたちの中で、その場にいた日本人3人で健闘を誓い合う。音楽もメインパートに来て、選手のテンションも最高潮となり、スタートの号砲が聞こえるでもなく、その時を迎えた。

いきなりの高速展開(START~U2 Saint-Gervais)※Uはエイドを表す

前の選手に続いて流れに身を任せてシャモニーの街を駆けていく。街のメインストリートを一斉に選手が走るため、沿道の声援が物凄い。中には、沿道からビールを配っている人も何人かおられ、海外レースに来たなと感じた瞬間でもあった。スタートの演出から、沿道の盛り上がり方、UTMBという大会がシャモニーに浸透し、これから100mileを走る選手たちの気分を街全体で盛り上げてくれている。

スタートしてしばらく、比較的フラットなロードと林道を走るのだが、周囲のランナーがとても速い。自分よりゼッケン番号が後ろの選手(UTMB-index順にゼッケン番号が決まる)にもドンドン抜かれていく。私もキロ4分30秒~5分で走っているが、これから100mileを走るペースとはとても思えない高速展開であった。

一つ目のエイド(ウォーターエイド)であるU1を特に補給することなく、私含め、ほとんどの選手が通り過ぎる。ここからスキー場の急な登りに入っていく。周囲の選手も一斉にポールを組み立ててカツカツと坂を登っていく、いや、駆け上がっていくという表現か。ここで3~4名ほどの日本人選手に抜かされた。どうも周囲が飛ばしすぎていると感じたため、あくまでもマイペースを貫く。次第に日が暮れていく中で、振り返るとモンブランの白い雪渓が夕日に照らされて、とても美しく雄大な光景が広がっていた。

スキー場のピークを越えて登った分と同じだけ下っていく。周囲の選手は、下りも速く、さすが世界の舞台といった感じである。序盤のここまでで感じた事は、国内の大会ならば、ボリュームゾーンの中で、流れに乗って走っていくという事がほぼ無かったのだが、UTMBでは、まるで自分がボリュームゾーンの中で走っているかと錯覚するくらいのレベルの高さを感じざるを得なかった。

徐々に加速(U2 Saint-Gervais~U8 Courmayeur)

U2もシャモニーと同様、選手を鼓舞するような大きな歓声が送られた。このエイドにて補給を行う。エイドにあったものは、水分については、水・スポーツドリンク・コーラである。食料については、チーズ・サラミ・フランスパン・パワーバーのようなもの・バナナ・オレンジ・スイカ等々である。基本的には、これらは以後どのエイドにもあるベーシックなものであった。ここでは、バナナとスイカ・オレンジを摂取する。スイカが水々しくとても食べやすいと感じたため、エイド事にスイカとオレンジは必ず摂っていた。その他の食べ物については、どれも走りながら食べる事が出来なかったため、チーズやサラミ・フランスパン等のいかにも海外補給食については何一つ摂取出来なかった。そして水分は、スポーツドリンクもあまり口に合わず、エイド毎で一口だけ飲むコーラと、フラスクに入れるのは毎回水ばかりであった。今思えば、補給面で水とほぼ水分であるスイカ・オレンジしか摂取していなかったので、これが失敗だったと思う。

U2ではまだ明るかったが、U3を過ぎるといよいよ暗くなってきてヘッドライトを点灯した。長いナイトパートのはじまりである。街と街を繋ぐ形で暗くなった田舎道を進む。U3を過ぎても前後に選手が連なっているため、国内レースにおいて、山中で感じるような孤独感は全く感じない。街を少し抜けてこれから本格的な山の登りが始まるのだが、その手前、坂道の両脇に若者(実際は分からないがそのエネルギッシュさからそう感じた)を中心とした人々が、通過する選手に対して熱烈な声援を送っていた。その熱烈さはまるで、さながらゴール間際の優勝する選手に送られるような熱い声援だった。夜の暗闇にも関わらず、UTMBで感じた国内にはない衝撃の情景だった。これからの登りを頑張ろうという気分に否が応でもなるが、ここまでのボリュームの声援があると雑多で賑やかすぎると感じた私は純粋な日本人なのだろう。

UTMBのコースはベースの標高が約1,000mであるが、最高地点は約2,500m地点であり、これから進むボンノム峠は最高地点の一つである。この辺りの登りに差し掛かってくると、序盤から飛ばしていった選手を拾っていく事が多く、この先、中間点のU8クールマイユールまで50人は抜かしただろう。ボンノム峠に到達すると、気温が一気に下がるが、幸い風がなく、動き続けてもいるため、雪が足元に現れていたが、寒さまでは感じなかった。

U5に到着。ここで必携品チェックがあった。チェックされた必携品3つ。スマートフォン・長袖パンツ・エマージェンシーシートであった。チェックも問題なく、クリアし、U5を出発する。ここから再び、2,500m地点のフェレ峠まで標高を上げていく。ここでも序盤から前にいた選手をどんどん拾っていく。登り始めはそうでもないが、一定の高度からゴツゴツした足場に変わっていくのが、UTMBコースの特徴でもある。先ほどのボンノム峠と違うのは、ある地点から霧の発生により、視界が悪くなった。そして頂上に近づくにつれ、風がどんどん強くなってきた。良いペースで動き続けてはいるものの、さすがに寒く感じてきた。立ち止まって防寒具を羽織る選手も増えてきた。私はまだ寒さに耐える事ができると判断し、アームスリーブを伸ばす(これまでは手首側に外していた)だけの対応とした。フェレ峠に到着するも、寒くて手の指先の感覚は無くなっていた。このままだと凍傷になりそうで、さすがに耐えられなくなったため、手袋を急いで装着するも感覚がない手では装着にかなり手間取った。少しタイミングが遅かったと小さく反省。その後、スキー場を下ってきて約85キロ地点U8クールマイユールに到着した。

経験した事のない異変(U8 Courmayeur~U12 Champex-Lac) 

U8クールマイユールはサポート可能エイドとなっており、以前出場したタイ・ドイインタノンでお世話になった方々にエイド補助をいただいた。ここでレース中唯一摂取した固形食の即席麺をいただく。お腹を満たされた感じがしたので、そこまで長居することなく、エイドを発する。クールマイユール街中を抜けていく。まだまだ暗かったので、じっくりとは見る事が出来なかったが、イタリア中世の街並みがそのまま現代に残っているようで、とても趣深かった。

街中を抜けて、山に入っていく。ポールをカツカツとここでも順調に登っていく。しばらく登って、標高約1,600m地点で小刻みなアップダウンを繰り返す走れるトレイルに出た。この辺りで走行距離にして100キロ弱。平地・下りは問題なく走れるが、少々の登りになると走ることが厳しくなっていた。ちょうど夜明けをこの辺りで迎える。左を向くとモンブランが真横に見える位置であった。朝方は全体的に雲がかかっていて、その山頂までは拝むことが出来なかった。この辺りのトレイルは道幅が広くなく、ほぼシングルトラックである。ここまで来ると、前後の選手とそう位置が入れ替わる事もなく、巡航に徹するような形である。シングルトラックにも関わらず、数頭の牛がコース上に鎮座していた。恐る恐るその横を通過する。これも海外レースならではの風景である。

少し下ってU10に到着。ここからまた2,500m地点まで登り返すのであるが、ここで早くも足が動かなくなってしまった。足が重くなって動かなくなってしまう事は過去のレースでも度々あるのだが、今回は過去感じた事のない息切れを感じ、登っている最中に何度も立ち止まってしまいたくなるような状態であり、自分でも原因が分からなかった。ここに至るまで、決して飛ばすことなく、一歩一歩大事に進み、下りもポールを使いながら、とにかく終盤に備えて足を残しておこうと意識していたにも関わらず、この状態であったため、ショックが隠し切れなかった。今度は後ろの選手にどんどん抜かされてばかりの展開に。時間をかけ何とか、山頂に到達。ここで無事完走できるのだろうかと最初の疑問を感じてしまう。

ここの山頂からは約10キロ下り箇所が続く。下りは重力に身を任せて、体感的にはかなり遅いが何とか走っていく事が出来た。その後、スイスの風光明媚な集落間を走る。基本的には下り基調で進むが、時折平地ロード箇所が出てくる。平地でさえ、時折走れなくなった。

その時、体調の異変に気付いた。どうも気持ち悪く、吐き気がする。しばらく水分しか摂取できておらず、ついには水も気持ち悪さから飲めなくなってしまっている。そんな状態で、シャンペ湖エイド手前の登り箇所に入るが、案の定全く登る事が出来ず、ついにはトレイルの脇に横たわってしまうまでになっていた。尋常ではない息の切れ方と強烈な吐き気。通過する選手を見送りながらも10分程度は横たわらざるを得なかった。残り距離と3つの山を越えるコース設定から完走できる自信もこの時喪失した。少し横になれば回復するかと思いきや、そんな事もなく。時間をかけて登り終えて、U12シャンペ湖エイドに辛うじて到着した。

シャンペ湖の葛藤(U12 Champex-Lac~U13Trient)

ここまで約120キロ。残り約50キロ。サポートエイドでもあるU12シャンペ湖に到着し、レースを辞めるかどうか考えざるを得ない状況であるが、少し休憩し様子を見ることにした。サポート食として味噌汁をいただくも、一口飲んでみて、体が受け付けなかった。食べられたとしても相変わらずスイカのみ。吐き気の気持ち悪さから少しベンチで横になってみるも回復はせず。ここで辞めてしまうか、途中で動けなくなるかもしれないが先を進むか。まだ回復する可能性に賭けてみたい為、この時、後者を必然的に選択した。

エイドを出てシャンペ湖を眺めながら進む。通常の状態なら、気持ちよく走れる湖畔の道であるが、トボトボと歩きだす。体調不良が回復する事を祈りながら。林道を進み、700m上昇する山の取り付けへ到着。ここからが地獄であった。道中、登る斜度が急になると途端に激しい息切れを起こし、吐きそうになる。ここでも脇に逸れてしばらく横たわる。この調子では進む事が難しく、相当時間もかかり、メンタル的にも厳しくなってきた。15分ほど動けずにいたが、再び登り始める。かなり時間がかかったが、何とかピークに到達し、登ってきた同じだけ下る。もはや下りでも走れる力もなかった。

登り下りとも大量に時間を要しながらも、U13トリエンに到着した。距離は進まずに、レース時間もどんどん経過していき、2日目の夜が目前に迫っていた。エイドの外で座り込んでいると、スタッフの方が大丈夫かと声をかけてくれて、体調が優れず休んでいて、横になりたい事を伝えると、救護室へ案内してくれた。ここで1時間仮眠を取る事にした。1時間経過して立ち上がった瞬間に強烈な吐き気が押し寄せ、ここで心が完全に折れてしまった。あと2つの山を越えられる自信が全くなく、ナイトパートで動きが緩慢な状態で、フェレ峠の時のような寒さと強風が吹き荒めば、危険が伴うと判断し、レースを終える事を決断せざるを得なかった。モンブランを取り巻く山の果てしなく高い壁を感じた。

レースを終える事を決めた後も救護室で横たわっていると、スタッフの方からこれから次のエイドまで救急車にて搬送しますと声をかけられ、隣のヴァロルシンというエイドの医療スタッフの充実している救護室に案内された。9月3日深夜2時。シャモニーまでの送迎バスに乗り、無念の帰着となった。

無常だった現実、そして次の舞台へ

憧れだったUTMBの舞台も145キロ地点で自らリタイアしてしまった一方で、シャモニーに戻ると歩けるまでに体調が回復した安堵感が複雑に交錯する夜となった。これまでどんなレースでもリタイアした経験が無かっただけにこの大舞台でのまさかで、受け入れ難い事実である。トレイルランを始めた頃から心のどこかで思い描いていたUTMBという華やかな舞台でフィニッシュゲートをくぐれないなんて。次第に悔しさが押し寄せる。時間を戻せるならば、スタート前に戻りたいと後悔の念があるものの、結局戻れたとしても結果は決まっていたのであろう。トレイルランの経験を積んで、自信を持って挑んだ憧れの舞台から「お前はまだまだだ、出直して来い」と大きな宿題をもらった。周囲の方々にも期待を持って送り出してもらった事もあり、せめてのフィニッシュゲートに辿り着けなかった事が申し訳なく感じている。決して簡単ではない100mileレースを改めて認識し、今回見直すべきところを徹底的に見直し、レース中に関する事だけでなく、レースに至るまでの準備に関しても、とりわけアイテム一つ一つにしても、余念なく丁寧に準備していきたい。そして再びこのUTMBの舞台で納得のいく走りができるように邁進する。

SALOMON SELECT ITEM

今回選択したシューズはS/LAB GENESIS。超長距離に向いたシューズで、特徴は優れたグリップ力・足へのプロテクションとクッショニング性。UTMBのコースは日本の山とは違い、ウェットな林道箇所もあったが、大部分はドライでゴツゴツした岩や土質のサーフェスが多い。このシューズのアウトソールには箇所によって異なったラグパターンが配置されており、そんなゴツゴツした岩のような局面にも安定して接地できるグリップを可能としている。また山のアップダウンに関しても、小刻みな登り下りではなく、連続した長い登りや長い下りが続く。少しでも足にダメージを蓄積しないように、いかに足元を保護するかが重要である。そこでこのシューズの持つプロテクションやクッショニング性が非常に有効である。また超長距離になると、疲労による体幹のブレから着地の際の足元が不安定になるが、シューズ側面に搭載されている左右プレートにより、着足の補正を可能として安定感を付加してくれるものである。またコース最高地点は2,500mを超えているため、雪が残っている箇所もあり、シューズが濡れてしまう場面も多々あったが、シューズの持つ速乾性により水捌けも良く、終始足元はノートラブルで進むことができた。実際に出場していた欧米選手の足元を見ても、このシューズをセレクトしている選手が多かった。 


FOCUSED ITEM

S/LAB GENESIS

S/LAB GENESIS は、コンペティションへのこだわりから解放されたシューズ。レース仕様の抜群のグリップと優れた保護力、快適さを備えていますが、自己最高記録よりも共有経験を積み重ね、数値ではなくアドベンチャーとして距離を語れるような、トレイルランニングの新しいアプローチを提案します。


板垣 渚 / Nagisa Itagaki

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・Salomonアスリート

学生時の代陸上経験はなく、大学卒業前にホノルルマラソンに出場し、走る事の充実感・達成感の素晴らしさに出会う。

30歳を過ぎてトレイルランニングという競技を知り、山の様々な地形を駆け抜ける魅力にどっぷりと浸かる。練習環境は山が主体で、滋賀県大津市の比良山の麓に現在の住居を構え、山とランニングを楽しむ生活を送っている。

<主な戦績>
2019 奥三河パワートレイル 優勝
2019 比叡山ITR50マイル 優勝
2019 峨山道トレイルラン 優勝
2021 LAKEBIWA100 3位
2021 ひろしま恐羅漢エキスパートの部 優勝
2021 TAMBA100 3位
2022 奥三河パワートレイル 優勝
2022 UTMF 41位
2022 比叡山ITR 8位